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カテゴリ:昭和期・二次戦後派
『潮騒』三島由紀夫(新潮文庫) 長く読み継がれる作品あるいは作家というのは、一体どんな小説・小説家なんでしょうね。 上記の小説を読んでいたら、ふとそんなことが頭に浮かんだんですね。 まー、つまり、『潮騒』は読み継がれるだろうか、筆者の三島由紀夫は読み継がれるだろうか、ということなんですけれど。 長く読み継がれるというのは、単に文学史上に名前が大きく取り上げられるということではありません。文学史の教科書に残り続けるというだけでしたら、三島由紀夫はたぶん間違いなくクリアでしょうが、私の夢想するのは、……んーと、そうですね。切りのいいところでまず百年。筆者亡くなって後、百年後も本当に読者が楽しんで読み継いでいる小説ってことなんですね。 ちょっとじーっと考えてみたんですが、その条件は二つかな、と。 (1)児童からローティーン向きの作品がある。 (2)教科書に作品が取り上げられている。 どうですか。なぁんだと思ってしまうような、身も蓋もない条件でしょうか。 もちろん優れた作品であることが一番大切なんでしょうが、でも実際の話、このあたりが怪しいような気がしますよね。 要するに、(1)は取りあえず自らの意志で(あるいは親の意志または夏休みの宿題で)、(2)は強制的に、読む・読まされるという小説ですね。やはり若き日の読書は、極めて重要であります。とにかく若い頃に実際に触れてもらえるのは大きい、と。 ところで、この二条件を見事に兼ね備えている作家といえば、おそらく芥川龍之介でしょうね。この作家はほぼ満点で「合格」、と。 (1)としては、『蜘蛛の糸』『杜子春』等いっぱいありますし、(2)の条件も『羅生門』とか、これ以外にもまだまだありそうですものね。 その次の「合格」作家と、その次の次の「合格」作家くらいまでは、すぐに挙がりますよね。 太宰治と夏目漱石です。作品は、まー、挙げなくても分かるかな、と。 でもその次くらいになると、ちょっと迷うような気もしますが、いかがでしょう。 志賀直哉あたりが微妙な感じで、うーん、……後はちょっとわかりにくいですね。 さて、冒頭の作品『潮騒』に戻ります。 今回ひさしぶりに再読してみたんですが、思ってた以上に遙かに「メルヘン」であることに気が付きました。それは少し驚くぐらいでした。 例えば二人が徐々にお互いを好きになっていく「面倒な過程」なんかは、ほぼ書かれていないんですね。新治の方はまがう事なき「一目惚れ」ですし、初江の方はというと、これがまるで書かれていません。二人が知り合って、なんだかぼそぼそと話し始めたなーと思ったら、もうキスしちゃうんですね。 えっ? これは現代風俗の小説か、と。 新潮文庫で調べてみますと、初めて二人が知り合うのが9ページ目、二人が初めて話をするのが30ページ目、二人のキスが43ページ目と、うーん、とっても「順調」ですね。 私が何となく覚えていた有名なシーン、裸の二人がいて、真ん中の焚き火を新治が飛び越えて初江に抱きつくという場面も、70ページから始まっています。まだ作品の半分も読んでいません。 つまり私のイメージより、すべてがずっとずっと前倒しになっていたんですね。 これはいったい何なのかと考えたんですが、……なるほど「メルヘン」である、と。 そう思って読むと、中盤以降の展開についても、あれよあれよのメルヘン仕立てと考えれば、なんだか本当に微笑ましく読めます。 新潮文庫巻末の解説に、この小説はギリシャの小説『ダフニスとクロエ』の現代版だと書かれていました。なるほど、それで「メルヘン」仕立てなのか、と。 しかしこの『ダフニスとクロエ』を読んだことのないわが身としましては(すんません)、この件はこれ以上何ともコメントのしようもなく、しかしただひとつ、解説者がまるで触れていないことについて、私は読書途中からずっと思っていたことがありました。 それは、太宰治との比較なんですが(三島が表面的には極めて嫌っていた太宰ですが)、三島と太宰の決定的な違いについてのことです。 三島のこの「メルヘン」を読んでいて気が付いたんですが、それは三島作品にはユーモア表現がないということです。「シニカル」はあっても「ユーモア」がありません。 そして、例えば第9章の蜂に襲われる場面や、第10章のバッグを巡る女の争いの場面など、本当は、三島はもっとユーモラスに書きたかったんじゃないかと思いました。 もし太宰がこの作品の筆者なら、きっとこんなところは高笑・哄笑あふれる場面になったと思います。 太宰の作品にあって三島の作品にない「ユーモア感覚」、もっとも、そんなことを言うなら、ユーモア感覚の欠如というのは近代日本文学の「弱点」でありますから、三島に限ったものではないとも言えます。 しかしね、ここから先は私の勝手な妄想なんですが、三島はこの作品を確かにギリシャの小説から「本歌取り」したのかも知れませんが、その書きぶりについては、きっと太宰のユーモアを目指したのではないか、と。 なんだかとてもそんな気がしました。 さて、冒頭の話題であった、『潮騒』が百年読み継がれるかと言うことですが、もしもこの作品に、太宰の作品の半分ほどのユーモア感覚があったら、間違いなく読み継がれていくだろうと、まー、これもやはり私の妄想みたいなものではありますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.12.01 06:29:29
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