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カテゴリ:大正期・白樺派
『小僧の神様』志賀直哉(岩波文庫) えー、志賀直哉の短編小説を読むなんて、うン十年ぶりであります。 かつて読んだのは、大学時代ですね。あの頃、純文学作品のとっても充実していた(今も充実しているんでしょうかね)新潮文庫を中心に、まとめて読みました。 さて今回、この岩波文庫に収録されている作品は、以下のものです。 『小僧の神様』 『正義派』 『赤西蠣太』 『母の死と新しい母』 『清兵衛と瓢箪』 『范の犯罪』 『城の崎にて』 『好人物の夫婦』 『流行感冒』 『たき火』 『真鶴』 最初この目次を見た時は、なるほどどの作品も、いずれ劣らぬ有名作品揃いであるなと思いました。 で、読んでみたんですがね。 ところが、うーん、私の記憶がアバウトなのか、加齢のせいで私の感じ方がかつてと違ってきたのか、作品の評価というよりもこれは好き嫌いだとも思うのですが、かなり初読時の印象とは異なったものを持ちました。 例えば上記作品中、昔はいい話だなぁと思っていたのは、『小僧の神様』『范の犯罪』『好人物の夫婦』あたりなんですが、今回の読後感は、極めて私的なものではありますが、もちろん悪いなんて事はないですが、特に「凄い」という感想を持ちませんでした。 なぜなんでしょうね。 『好人物の夫婦』なんてお話しは、何となくその理由が分かります。 簡単に言うと、大学時代の私はまだ結婚していなかったからですね。 別にそんなつもりはなくても、やはり独身時は、結婚というものに一種「非現実的」な期待をしていたんでしょうねー。 現在のように結婚してうン十年も経ってしまうと、もはや現代にはこんな「好人物」の女房などいないのだ、と。(こんな風に「相方」のせいにしてしまうところに、たぶん私の人格的な問題があるんでしょうねー。) 『范の犯罪』については、もっと変な印象を持ちました。 裁判官が「無罪」としたその理由が、分かるような気もしつつ、しかし根本的なところが全く分からない、と。 というより、昔読んだ時はこれが本当に納得できたのだろうかと、逆に不思議に思ってしまいました。もちろん、この作品が完璧な「リアリズム小説」とは思わないものの、改めて読んでみると、もうひとつ分からない論理展開ではないかな、と。 実は今回読んでいて、この近代日本を代表する「小説の神様」の諸短編について、私はとっても「恐ろしい」感想を持ってしまったんですがー。……それも複数個の。 まずその1ですが、それは例えばこんな表現です。 もしかしたら、自分のした事が善事だという変な意識があって、それをほんとうの心から批判され、裏切られ、あざけられているのが、こうした寂しい感じで感ぜられるのかしら? もう少しした事を小さく、気楽に考えていればなんでもないのかもしれない。自分は知らず知らずこだわっているのだ。しかしとにかく恥ずべき事を行なったというのではない。少なくとも不快な感じで残らなくてもよさそうなものだ、と彼は考えた。(『小僧の神様』) 私の幼年時代には父はおもに釜山と金沢に行っていた。私は祖父母と母の手で育てられた。そしていっしょにいた母さえ、祖母の盲目的な激しい愛情を受けている私にはもう愛する余地がなかったらしい。まして父はもう愛を与える余地を私の心の中にどこも見いだす事ができなかったに相違ない。この感じは感じとしてその時でもあったから、私には子宝がなんとなくそらぞらしく聞きなされたのである。――それより母に対して気の毒な気がした。(『母の死と新しい母』) こんなところなんですけれどね。 『范の犯罪』の、裁判官の無罪判断根拠がよく分からない、と言うのも同じではあるのですが、そもそも范が、妻の頸動脈にナイフを突き刺してしまった自分の心理を裁判官に説明している部分、この描写、何が説明されているのか、よくわかります? 説明しづらい心理を誠実に書いているという感じはする一方、そもそもいかにも志賀直哉的な心理のあり方を説明するこの表現は、ひょっとしたら、ひょっとしたら、……とっても分かりにくくて、少し「へたくそ」なんじゃないかしら。(うーん、書いてしまいました。) 抽象的な事柄について、十分に論理的な説明ができていないんじゃないか、と。 あるいは、正面から取り組みすぎているのかも知れませんね。他の小説家なら、こんな個所は例えばもっとおしゃれに比喩を用いるとかして、正面からの説明をさけるのかも知れません。 しかしともあれ、私はこの度、とうとうとんでもないことを書いてしまいました。 「志賀直哉の小説はへたくそだ。」と。 ひえーーー、こんな事、志賀直哉をぼろかすに言っているあの『如是我聞』を書いた太宰治ですら書かなかったですよ。 ……うーん、すみません。後半に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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