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2011.02.05
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カテゴリ:明治期・耽美主義

  『すみだ川』永井荷風(岩波文庫)

 永井荷風といえば花柳小説に江戸情緒ですかね、そんな、失われゆく文化に万感の思いをこめた作家というイメージが、私にはあるんですね。

 いえ、私も『ふらんす物語』とか『あめりか物語』なんてのも昔読んだはずですが、戦後の、一人暮らしで全財産をいつも鞄に入れて持ち歩き、そしてストリッパーたちと遊んでいた荷風像と共に、「失われた江戸文化」の代弁者としての荷風の印象が強いもので、つい、そんなことを思ってしまいます。

 ちょっとどうでもいい話ですが、ついでに晩年の荷風といえば、上記のものに加えて、今となっては珍しくもなくなってしまいましたが、陋屋での孤独死ですかね。死んだ時、持っていた鞄に現金2400万円でしたか(昭和34年当時の)が入っていたというのも驚きですが。

 そしてさらに、そんな荷風のイメージを私に決定づけたのが、石川淳の、荷風の死に際しての激越な追悼文『敗荷落日』でした。
 石川淳は、かつて荷風の作品は大いに評価していましたが、荷風の晩年については、もはや「精神の運動」を失ってしまった一人の老人にすぎないと書き、そんな老人に弔意を表す縁は私には全くないと切って捨てました。(あの一文はなかなか怖かったです。)

 さて、そんな筆者のイメージを持ちつつ読み始めた本書であります。『すみだ川』なんてタイトルも、いかにもそんな感じがするではありませんか。
 しかし、いくつかの話を読み進めていくうちに、なるほど、こんな荷風も確かにいたのだと、少々驚くと共にとても新鮮な感じがしました。
 もう少し、順を追って説明いたしますが、本書には4つの短編小説が収録されています。この4つです。

   『すみだ川』(明治42年8月~10月作)
   『牡丹の客』(明治42年2月稿)
   『見果てぬ夢』(明治42年11月稿)
   『祝盃』(明治42年4月稿)


 作品名の後に書いてある日時は、その小説の最後に書かれてあったものです。つまり、この短編集は、すべて明治42年に作られた作品なんですね。
 ちょっと荷風の年譜を挙げてみますね。

  1908年(M41)外遊より帰国。『あめりか物語』発表。
  1909年(M42)『ふらんす物語』『歓楽』(共に発禁)
           『冷笑』(漱石推薦により朝日新聞に連載)
  1910年(M43)鴎外・上田敏の推薦で慶応大学文学部主任教授になる。
           訳詩集『珊瑚集』。「三田文学」創刊。谷崎潤一郎の紹介。
           「大逆事件」起こる。

 この時期は、「文化人・文学者」としての荷風の、まさに絶頂期という感じの3年間ですね。八面六臂の大活躍であります。
 しかし、この活躍も「大逆事件」をもって終了、以降、花柳小説や懐古随筆などが作品の中心に据えられるようになります。

 まさにそんな文学者・永井荷風の絶頂期に書かれた短編小説が、今回の短編集に入っている小説であります。
 上記に私は、こんな荷風もいたのだと書きましたが、それは瑞々しい「色気」と若やかな批評心にあふれた荷風です。

 毎夜彼はこの響を廃宅の柱にもたれて聴き澄す事を愛した。この響は無限の空想を深け渡る燈火の下に誘ひ出すからである。彼は遊郭をば美しい詩の世界だと感じてゐる。遊郭のみではない。世のあらゆる罪悪、人間のあらゆる弱点も美しい詩であるとしか思ふ事が出来ない。詩の生命は悪であるか悪の生命は詩であるかと疑ふ事さへ度々であつた。貞操の妻と慈愛の親が眠つて居る時を窺つて、不正の恋に囚はれた若い人達が悔恨の涙に暮れながらも拒み難い力にひかれて暗黒の夜を走り彼処には人工の昼間が造り出されてある特別の世界に彷徨ひ、粉飾と虚偽との間に瞬時の欺かれたる夢に酔ふ。詩でなくてなんであらう。(『見果てぬ夢』)

 彼は一時ある銀行の雇人になつた事がある。無職業と云ふのはいかにも世間の聞えが悪い。名義だけでもいいから何処かへ勤めに出てくれと細君がたつての勧を退けかねたからである。彼は名望のある父の威光で容易く勤め口を見付けたけれど、もともと自ら進んでやつた事でもないから、其れほど実直に其れほど規則正しく勤めはせず、内心では体よく向うから解雇して呉れればよい位に思つてゐた。ところが事実は全く相違して其の年の末に経済界一般の不振と共に、銀行部内に改革が行はれて、彼よりも最つと勤勉で且つ生計に苦しんで居る幾多の社員が解雇された。それにも係らず彼は無事で而も等級が昇進した。彼は自ら正義の如何を疑つた。自個の存在を心疚しく思つた。銀行の頭取と大蔵省の官吏であつた自分の父との関係を不快に感じた。彼は一度び遠かつた花柳界に意識して再び近づき、そして離婚を断行すると同時に銀行をも辞職してしまつた。(『見果てぬ夢』)

 実はわたくし、荷風といえば一般には名文の誉れ高くはあるものの、はっきり言って「失われゆく江戸情緒」など、私には係わることの全くないものに偏している「マニアック」な文章にすぎずと、上方生まれの私は(変に嫉妬し)、またも偏った位置づけをしていたのでありました。(しかし毎度の事とはいえ、今回もまた己の愚かさをさらけ出してしまいました。)

 この度私は、「大逆事件」以降江戸情緒や花柳界に耽溺する前の荷風の文章が、一種艶やかさを含みながらも格調高く意志的であることに驚き、なるほど、これなら漱石や鴎外などがいろんなところに推薦するはずだと学びました。
 そして、「若い頃の荷風って、ひょっとしたら、かなりセクシー」と、私は少々軽薄に、思い直したのでありました。


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Last updated  2011.02.05 09:04:56
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