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2011.04.13
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カテゴリ:明治期・耽美主義

  『つゆのあとさき』永井荷風(岩波文庫)

 本作は1931年(昭和6年)作で、荷風が、従来の芸者話から、新しい時代の女給や、さらに私娼などを中心にした話へと創作の興味を変えていく切っ掛けになった小説と、まー、そんな風に位置づけられている作品です。

 なるほど、その通りでしょうね。
 昭和6年といえば、荷風の文壇デビュー作を仮に『あめりか物語』1908年(明治41年)と考えて、23年目ですか。うーん。

 何が言いたいのかと言いますと、荷風の文章力についてであります。
 何ともこの見事な文体の事であります。23年でここまで来るかー、という事ですね。
 どこの箇所を取り上げても舌を巻くほどうまいんですが、例えばこんな部分。

 客は二人とも髭を生した五十前後の紳士で、松屋か三越あたりの帰りらしく、買物の紙包を携え、紅茶を命じたまま女給には見向きもせず、何やら真面目らしい用談をしはじめたので、君江はかえってそれをよい事に、ひまな女たちの寄集っている壁際のボックスに腰をかけた。テーブルの上には屑羊羹に塩煎餅、南京豆などが、袋のまま、新聞や雑誌と共に散らかし放題、散らかしてあるのを、女たちは手先の動くがまま摘んでは口の中へと投げ入れているばかり。活動写真の評判や朋輩同士の噂にも毎日の事でもう飽きている。睡気がさしてもさすがにここでは居睡りをするわけにも行かないらしく、いずれも所業なげに唯時間のたつのを待っているという様子。

 こんなちょっとした部分にしても、掌の上を描いているようで、まさに天衣無縫という感じがします。
 で、そんな惚れ惚れするような文体で、荷風は一体どんなことを書いているのかというと、まー、こんな事ですね。

 (略)端折りのしごきを解き棄て、膝の上に抱かれたまま身をそらすようにして仰向きに打倒れて、「みんな取って頂戴、足袋もよ。」
 君江はこういう場合、初めて逢った男に対しては、度々馴染を重ねた男に対する時よりもかえって一倍の興味を覚え、思うさま男を悩殺して見なければ、気がすまなくなる。いつからこういう癖がついたのかと、君江は口説かれている最中にも時々自分ながら心付いて、途中で止めようと思いながら、そうなるとかえって止められなくなるのである。美男子に対する時よりも、醜い老人やまたは最初いやだと思った男を相手にして、こういう場合に立到ると、君江はなお更烈しくいつもの癖が増長して、後になって我ながら浅間しいと身震いする事も幾度だか知れない。


 ま、これは、このぉー、やっぱりー、「戯作」というよりー、「エロ話」ですなー。
 しかしなぜ、これほどに文章の才能があって、十分な教養も身につけている人物が「エロ話」を書くにいたったかというのは、それは有名な例の話ですよね。
 「大逆事件」がらみの話であります。

 「大逆事件」そのものは、詳しくはウィキペディアとかそんなので調べていただくとして、荷風は日本のこの「言論封殺事件」に出会った時、それに抵抗のできなかった自分を深く反省し(「反省」っちゅうのとはたぶん違いますよね。「反省」ならば筆を折ればよろしい。)、以降自分は江戸時代の戯作者に身を落として生きるとかなんとか、まー、言ったんですよね。
 そして、「エロ話」を書くに到る、と。

 でもこれは、やはり「アリバイ」ですよねー。
 こんな事件がなかったとしても、きっと荷風は自分でそんな事件を作って(それは別に社会的事件でなくて個人的なものでもよく、あるいは例えば関東大震災でも、それでやってしまおうと思えばできますよね)、元々の嗜好であった文章を綴る「アリバイ」としたんでしょう。

 ただ本書には、少しそんなのとは違ったタイプの女性も出てきています。
 堕落した通俗作家の妻の「鶴子」です。この人物は初めて登場するシーンから気合いの入った、きりりと引き締まった描かれ方がされています。

 初夏の日かげは真直に門内なる栗や棟の梢に照渡っているので、垣外の路に横たわる若葉の影もまだ短く縮んでいて、鶏の声のみ勇ましくあちこちに聞える真昼時。じみな焦茶の日傘をつぼめて、年の頃は三十近い奥様らしい品のいい婦人が門の戸を明けて内に這入った。髪は無造作に首筋へ落ちかかるように結び、井の字絣の金紗の袷に、黒一ツ紋の夏羽織。白い肩掛を引掛けた丈のすらりとした痩立の姿は、頸の長い目鼻立の鮮な色白の細面と相俟って、いかにも淋し気に沈着いた様子である。携えていた風呂敷包を持替えて、門の戸をしめると、日の照りつけた路端とはちがって、静な夏樹の蔭から流れて来る微風に、婦人は吹き乱されるおくれれ毛を撫でながら、暫しあたりを見廻した。

 ね。女性らしい和やかさを細かく描きつつ、初夏の薫風のような爽やかさも漂わせている文章ですよね。
 結局、こんな所に荷風は、初期の作品に点在していた自らの美意識や批判精神を閉じこめていったのだと思います。

 とすればやはり、これはこれで優れた批判性や文学性を持った作品であると、少々荷風のファンになりかけている私は、改めて思った次第でありました。


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Last updated  2011.04.13 06:19:20
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