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カテゴリ:明治期・明治末期
『東京日記』内田百けん(岩波文庫) 冒頭の「恐怖短編小説集」読書報告の第三回目になりました。 もうそろそろ終わりにします。 前回は、筆者の恐怖小説は極めて高い評価があるのですが、一体どこが怖いのだろうかということを考え始めていました。 しかし、よく考えてみれば、恐怖というのは不思議な感情ですね。 どこが不思議かというと、その感情の沸騰の仕方が他の感情と比べて圧倒的に高速度だという気が、しませんか。 気が付いたらあっという間に、感情の収納容器が高圧になるくらい満ちあふれています。 怒りが、それに近い感情かなとは思いますが、沸騰する瞬間の「気圧」の高さは、恐怖の方が遙かに高いと思います。 だから恐怖は、パニックを生みます。 百けん恐怖小説の見事さは、パニック誘導能力の見事さであります。 私は、その演出法について、恐怖状態の解説を先取りして表現に組み込んでいく事だと考えました。 部屋に坐っていて、屋根の上を小石が転がっていく音がします。音は、石の落ちる速度の加速度的速さを伝えながら庇間際に到達し、そして庇をすべって屋根から離れ、音が消え、次にはきっと小石が庭の土の上に落ちる音がするであろうその一瞬の空白、この空白のことを、筆者は次のような表現を先取りして我々に解説するわけです。 「次第に沈み込んで行く様な気配」 「はっとして身ぶるいがした」 「総身の毛が一本立ちになる様な気がした」 「じっとしていられない」 そんな風にいわれれば、そのように描かれた状況に感情移入ができないわけではありません。屋根の上の傾斜を小石が転がり落ちていく音というのは、感じようによっては、ひどく皮膚感覚じみた、神経を逆なでするような感じが、確かにしますよね。 しかし本当は、我々はその状況にではなくて、この表現そのものに恐怖を感情移入しているのではないでしょうか。 (「総身の毛が一本立ちになる様な気がした」という類の表現は、筆者の自家薬籠中のもので、他の作品にも再三現れてきます。) 恐怖とは不思議な感情です。 恐怖が恐怖の引き金になり、新たな恐怖を生みだし、それらがぶつかり合って、そして核分裂のようにあっという間に「臨界」にまで達します。 百けん恐怖小説の仕掛けの見事さは、それだけでは恐怖の芽とも言い難いもの、刷毛で擦ったように微かに感情の襞に触れる小さな表現を、文体のフィールドの中に一つずつ丹念に埋め込んでいることです。 そして読者がそれらを一つ一つ踏みながら読み進んでいき、ちょうどその芽の恐怖がある「温度」に達しそうな時、瞬間の沸騰を誘導する最後の少し大きめの仕掛けが駄目出しされます。 前回取り上げていた『サラサーテの盤』の冒頭部で挙げますと、 「家内が、あっと云った」 「『まっさおな顔をして、どうしたのです』」 という個所です。 これが、恐怖の最後の増幅装置です。 身体に危害が及ぶ状況など予想されないのに、つまり何ら実態を伴った対象でもないのに、我々の感情の中に生まれる恐怖。 そういった心理的恐怖とは、基本的に超常現象に関する物が中心でありましょうが(端的にいえば「お化け」ですかね)、百けん作品の場合はそうではありません。 超常現象の代わりに作品内にあるのは、おそらく「思いこみ」とか「思いがけなさ」とか「勘違い」とかいう日常現象です。 この、一つ一つは取り立てて恐怖感情を呼び起こすことのないものを、まとめ上げ、あっという間に「異化」させてしまうのは、筆者独特の言葉の扱い方であります。 ただ、今回取り上げた作品の中で、すべてが「内田百けんゾーン」的恐怖を描いているわけではありません。 それについては、前々回の報告で、収録の七つの作品を三つのグループに分けた、その時のグループ名からすでにおわかりいただけたと思います。 特にあの中の「漱石『夢十夜』あやかりグループ」ですが、あれは一種の筆者の「恐怖の持ち駒」と考えることも可能ですが、私としては、少し筆者らしくないようにも感じました。 「恐怖エピソード集」のような作品だと思いますが、ここにあるのは悪夢のような不条理の恐怖であり、筆者本来の(というか、百けんの独壇場の)、日常の中をもっと鋭角に切り込んでくる、火花の散るような恐怖とは少し異なっていると感じました。 いえもちろん、これは全く個人的な好みに過ぎないのかなとも思いますが。 ともあれ、そんな筆者の恐怖小説をまとめて読んでいきますと、自分の中にある心という容器について、改めて、その形とか大きさとか、隅っこの方の具合や襞などの様子といったものを手探りで丁寧に触れていくような、そんな気持ちになります。 実はこの感情こそが、本当の百けん恐怖小説の魅力なのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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