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カテゴリ:平成期・平成期作家
『乳と卵』川上未映子(文春文庫) えー、今回は、ばりばりの現役の若手作家の小説を読んでみました。 本ブログの作品選択の基準は、高校国語教科書副読本の『近代日本文学史』中に触れられている作家の作品、ってことを一応考えてはいるのですが、もうすでにいろいろと逸脱していますー。 かつて取り上げた国枝史郎なんて、多分そんな本には載っていないでしょうし、山田風太郎もきっと載ってないです。それどころか、司馬遼太郎すら載っていない副読本があったりします。 かと思えば、こんな作家まで挙げるかー、とつい思ってしまう方もあったりします。(まぁ、別に、いいんですがー。) 失礼ながら、わたくし同様、作家の選択基準は結構「テキトー」という気がします。 さて一方、ごく新しい作家についても、教科書は取り上げてくれません。 でもこれは、当たり前といえば当たり前ですね。 生徒達が学ぶに足りる(記憶することを科されてしまう)作家に相応しいかどうかということは、厳密に精査されねばなりません。 そのためには、本当のところ、本人が亡くなって最低二十年くらいは経たなければ、客観的な評価はできない気がしますが、しかしまー、そんな原則論ばかり言っていたら、生徒達が好むような生きのいい文学の紹介ができなくなるという、うーん、二律背反、ですなー。 ともあれ、今回はそんな、生きのいい作家の小説であります。 しかし、普段、夏目漱石とか尾崎紅葉とか幸田露伴とかの小説を読みつつ、こういった現代の女性作家の本をたまに手に取ると、当たり前ながら、すっごい「落差」がありますよねー。 この「落差」は真面目に言うならば、少し気を付けねばいけません。 放っておくと、感性が「動脈硬化」を起こしそうになっている自分に気付くことがあります。 もう少し具体的に言えば、過去の名作と比較して「出来が悪い」と断罪しかねないということですね。これは、「危険」であります。 今回の作品も、しばらく読み進めていたところで、ふっと「しかし考えてみれば、やはり宮本百合子は天才だよなー」と呟いてしまって、我ながらびっくりしました。 私は何ということなく、本作を宮本百合子の17歳の時のデビュー作『貧しき人々の群』と比べていたんですね。 しかしそれはないですよねー。そんな比べ方をされてしまうと、その比較に堪えきれる作品などほとんど無くなってしまいます。 ただ、私がなぜいきなり宮本百合子を出してきたかというと、それは作品に描かれる世界の広がりということをなんとなく考えていたからなんですね。 もちろん人間群像を描く作品が広くて、自らの内面に深く錘を降ろしていく作品が狭いと、一律に述べるつもりはありませんが、それでも何といいますか、うーん、やはり、作品の「柄」とでもいうものが昔に比べますと、……というふうに「昔はよかった」になっちゃうのが危険なんですよねー。(いかん、いかん。) さて私は、今回取り上げた小説を、とても面白く読みました。場面によっては、本当にぎゃははと声を挙げて笑いながら面白く読みました。そう読めるように、作者がうまく書いてくれているからです。 で読み終わって、おもしろかったーと思って、さてちょっと分析的に内容を思い返すと、こんな話なんですね。 女性の肉体の生理・精神を病む子供・母子家庭・関西弁 うーん、このまとめ方は、ちと問題がありますかね。 「母子家庭」がここに入っているのはちょっといかんだろうと言う気がします。 じゃ、関西弁は? いや、これは、いいかも知れないな、と。 しかしこうして四つを眺めていますと、見事に煮詰まってきますなー。 なんだか見えてくるでしょ。そして、とっても面白そうでしょ。 その通りなんですね。とっても面白いんですね。声を挙げて笑ってもいい話なんですね。 事実、クラスマックスのシーンの「卵」の扱いなんか、あざといほどに実に巧みであります。 しかし関西人がこんな話を書くと、なんでこんな風になっちゃうんでしょうかね。 西鶴との類似を挙げるには少し「誉めすぎ」としても、織田作とか、そして、私がこの度大いに思ったのは、ちょっとイヤミかも知れませんが、 「女町田康」 あ、やっぱり言い過ぎですか。 ファンの方なんかがお読みになるとイヤがるかな。 しかしねー、このオーバードライブする文体といい、その中の言葉のひとつひとつが実に微妙にナーヴァスにチョイスされていることといい、まさに町田康に匹敵するような素晴らしさだと私は思うんですがねー。 最後に、やや本筋と離れたシーンですが、ひとつ紹介したいと思います。 「わたし」と「わたし」の友人の二人の女性が話し合っているところです。友人の一人が「胸大きくしたい」と言って、もう一人の女性に「フェミニズム的」に手厳しく批判されているところであります。 本筋から離れたところでもこれくらい、抜群のリズム感で書かれている作品でありますから。 (略)何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうが、だいたい女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ? あなたのその胸を大きくしたいってんならまずあなたの胸が包括してる諸問題について考えるってことから始めなさいよって云ってんの、それに化粧はもともと魔よけで始まったもんなのよ、人間が魔物を恐れてこれを鎮めるために考えられた知恵なのよこれは人間の共同体としての、儀式なのよ。文化なの。大昔には男だって化粧やってるんだしだいたいあんたはそもそもわたしの云ってる問題点がまったく理解できてないわ、話にならない、と顎で刺すように云えば、は、じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、大体女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう云わせてもらうっつの。まずあんたのそのわたしに対する今の発言をまず家に帰ってちくいち疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわおまえのド頭に、とか云って、なぜかこのように最後は大阪弁となってしまうこのような別段の取り留めも面白みもなく古臭い会話の記憶だけがどういうわけかここにあるのやから、やはりこれはわたしがかつてじっさいに見聞きしたことであったのかどうか、さてしかしこれがさっぱり思い出せない。 どうです? 女町田康、って。だめですかね? よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.06.01 06:22:42
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