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2011.07.13
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カテゴリ:昭和期・後半男性

  『1973年のピンボール』村上春樹(講談社)

 えー、『風の歌を聴け』の続き、ですね。
 というより、このお話は『風の歌を聴け』がなかったらほとんど意味のわからないお話のような気がします。
 つまり、単独作としては、あまり体をなしていないんじゃないかと言うことですね。

 村上春樹が「出来が悪い」として、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の外国語への翻訳を許可していないことについて、本当は『ピンボール』だけをそうしたかったんじゃないかと、少し邪推をしてしまいます。

 しかし、『ピンボール』だけ駄目っていっちゃうとあまりに透けて見えてしまうものがありそうで(それに少し大人げないような気もして)、それで、2作セットにしたのではないでしょうか。
 だとすれば、『風の歌』は少し気の毒な気がしますね。
 デビュー作ゆえの気負いや稚拙さはあるとしても、いわゆる「デビュー作には作家のすべてが詰まっている」的な、村上春樹エッセンスが、明らかにあの小説にも詰まっていると思えるからです。

 さて、冒頭からいきなり「もひとつやなぁ」的に触れてしまった『ピンボール』ですが、うーん、何といいましょうかー、このお話は二つの憂鬱の話なんですが、読後感は「軽い」ですね。
 それもやはり、少し書き込みが足りないと思うからでしょうかねー。

 第一、終盤近くまで奇数と偶数、各章ごとに書き分けられている「僕」と「鼠」の話ですが、この二つ、バランス悪すぎませんか。
 まるでマーラーの3番みたいではないですか。(いえ、もちろん、マーラーの3番は名作ですが、この3番も楽章ごとの長さがめちゃめちゃばらばらであるという、それだけの接点で取り上げただけなんですがー。)

 基本的に「鼠」の話には展開がないんですよね。同じような「雰囲気」が延々と続いています。
 そもそも、この「鼠」の憂鬱の原因は何なのでしょうか。

 霊園は鼠の青春にとってもやはり意味深い場所だった。まだ車には乗れない高校生のころ、鼠は25CCのバイクの背中に女の子を乗せ、川沿いの坂道を何度も往復したものだ。そしていつも同じ街の灯を眺めながら彼女たちを抱いた。様々な香りが鼻先を緩やかに漂い、そして消えていった。様々な夢があり、様々な哀しみがあり、様々な約束があった。結局はみんな消えてしまった。

 ここに描かれるような「喪失感」が、「鼠」に特有な物であるとしたら、その内容の説明は『風の歌を聴け』に負ってしまいすぎているように思いますし、もしこの「喪失感」が一般的な若者の感傷に近いものならば、まぁ、悪いとは言いませんが、それはさほど目新しい物でもないように思います。

 ただ、「鼠」の章について言えば、本作には、彼の街からの出発と「死」についての暗示が描かれていますね。
 これが次作の『羊をめぐる冒険』に繋がっていくのでしょうね。

 さてもう一方の憂鬱の持ち主、「僕」の章ですが、唯一日本人らしい固有名詞を持つ女性「直子」が出てきますが、彼女の造形も、あきらかに『風の歌を聴け』に負っています。

 わたくし、思うんですが、筆者はこのことについてちょっと迷ったものの結局前作に乗っかかると決めたのではないでしょうか。
 そう決めてしまえば、そのこと自体に対する批判は出るとしても(私も前述しました、いわゆる独立した作品とは読みがたい、というやつですね)、書く書かないのエピソードはすっきりします。
 でも結果としては、何となく痩せたような作品になってしまった、と。

 全体を通して次作(『羊』ですね)への「ほのめかし」が随所に見えるように思います。
 配電盤の葬式、ふたごの出現と消滅(このふたごもまた、見事にリアリズムを抜き去った会話をする人物達と設定されていますね)、そしてピンボールへの傾斜。
 この後、村上作品に全面的に展開されていく「異界」への暗示が、あちこちにちりばめられ、そしてそれは、かなり「凄み」のある描写だなぁと、本作が描かれて既に30年以上が経って読み返し、改めて感じます。

 しかし最後に、はて、それも筆者の明確な「戦略」なのかと立ち止まって考えてみると、村上春樹氏のクレバーな頭脳は定評あるところでしょうが、なるほど、作家とはつくづく凄いものだと、私はひたすら感心するのでありました。


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Last updated  2011.07.13 06:33:30
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