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カテゴリ:明治期・明治末期
『煤煙』森田草平(岩波文庫) 上記小説の読書報告後半であります。 前半は、森田草平は師匠の夏目漱石に愛されていたと言うところまで書きました。(たぶん。) その漱石が、小説『それから』の中で、主人公代助の思いという形を取りながら『煤煙』評を書いているのは有名な話ですが、こんな感じですね。主人公の代助と、書生の門野との会話です。 門野は茶の間で、あぐらをかいて新聞を読んでいたが、髪を濡らして湯殿から帰って来る代助を見るやいなや、急に居三昧を直して、新聞をたたんで座布団をそばへ押しやりながら、 「どうも『煤煙』はたいへんなことになりましたな」と大きな声で言った。 「君読んでるんですか」 「ええ、毎朝読んでます」 「おもしろいですか」 「おもしろいようですな。どうも」 「どんなところが」 「どんなところがって、そうあらたまって聞かれちゃ困りますが。なんじゃありませんか、いったいに、こう、現代的の不安が出ているようじゃありませんか」 「そうして、肉の臭いがしやしないか」 「しますな。大いに」 代助は黙ってしまった。 と、こうあって、この後代助が思ったこととして、『煤煙』の登場人物の要吉と朋子が心中未遂を図る原因が納得でないと言う感想を抱くところが描かれるのですが、その批判もさることながら、上記に抜き出した辺りの書き方が、いかにも漱石、上手ですよね。 漱石はむっつりとまじめくさった顔で写っている写真ばかり残っているので(もっとも、昔の人はみんなそうでしたね。ついでにお札にもなった漱石の顔写真は、あれは明治天皇の服喪中に撮ったもので、よく見ると腕に喪章が付いています)、真面目一本のように見えますが、作品中のこんな部分はいろんな効果を考えながら、実にユーモラスに「ちゃっかり屋」という感じで書いていますね。 引用部の最後に「肉の臭い」という表現が出てきますが(坂口安吾はこの言葉を切り返すように用いて漱石批判をしていますが)、漱石は『それから』を「肉の臭い」のしない不倫話に仕立て上げようとしていたんですね。 そして、森田草平をはじめとする弟子達に、いわば格の違いを見せつけようとしたわけです。(結果は、実にその通りになっていますが。) 前回、漱石の弟子と言うことで何人かの小説家の名前を挙げましたが、今回、冒頭の小説を読んでいて、もっとも漱石に似ているのはこの森田草平だなという感じを強く持ちました。 鈴木三重吉という人は、中勘助に近いような感じで、もう少し表現がファンタジックです。久米正雄ははるかに通俗的です。芥川の切れ味は漱石に比べますとやはり「偏執」的な感じがします。 この森田草平の文章が、一番漱石に似ているような気がします。 ただ、格調、鋭さ、諧謔味、などすべてにおいて少しずつ漱石に手が届かず、少々辛口に書けば漱石のエピゴーネンじみて、或いはひょっとしたらなまじ漱石の影響下にあるから出来の良くないパロディみたいに「みっともない」感じになってしまって、むしろこの作家は、もっと「自然主義的」に書いた方が良かったんじゃないかと思います。 上記に取り上げたこともあって、私は少し『それから』を読んでいたのですが、こんな表現が出てきました。 親父の頭の上に、誠者天之道也という額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いてもらったとか言って、親父はもっとも珍重している。代助はこの額がはなはだきらいである。第一字がいやだ。そのうえ文句が気にくわない。誠は天の道なりのあとへ、人の道にあらずとつけ加えたいような心持ちがする。 漱石の天才的なうまさは、こんなところにあると私は思うんですね。ユーモラスで象徴的なエピソードですが、この切り口は、全編にわたって深いところでテーマと共鳴しあっています。こんな切れ味の鋭い表現が、漱石作品には随所に見られるんですね。 一方、残念ながら森田作品にはこんな「アクロバティック」な芸はありません。 地道にこつこつと書こうとしているのですが、少しずつデッサンが狂っているような「グロテスク」さが見られます。 ただ、最後にたった一つ、漱石作品より勝っている、あるいは漱石作品に対するオリジナリティが感じられるのは、やはり本作がより若い世代の作家の手によるものであるというところでありましょうか。 それ故の未熟さは上記に書きましたが、漱石作品の持つまろやかな円環が時に骨董品のように感じられるのに比べて、当時、日露戦争終了後のいわゆる「戦後世代」の持つまだ充分芸術表現としては成熟していない行方の分からないエネルギーは、やはり「若い可能性」を感じさせるところでありましょう。 ただ、骨董品的と書いたこの『それから』の執筆時、漱石はまだ42歳であったのですが。……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.02.29 06:21:04
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