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カテゴリ:明治期・耽美主義
『都会の憂鬱』佐藤春夫(新潮文庫) 先日ぼんやりと新聞を読んでいましたら(最近ぼんやりとしか文字が読めないんですが、これは加齢のせいというより、そもそもの頭の作りがアバウトなせいだとは思いますが、どちらにしても困ったものであります)、作家の津島佑子さんが、ヨーロッパと日本の大学の作り(「建学の精神」ってもんですかね)について触れていらっしゃいました。 簡単にまとめますと、ヨーロッパの大学の建学理念には、神学研究という太い柱が伝統的継続的にしっかりと根付いているが、日本の場合は、明治維新以降の「文明開化」「富国強兵」政策のための学問という、いわば「便宜的」なものしかない、と。 (明治以降の大学制度の前身としては、江戸時代の幕府や各藩の学問所の系譜はあるものの、それは維新後の「文明開化」の名のもとに伝統と切り離され、実質的には建学理念の継続性はほぼないという説明もありました。) そしてその結果どうなったかというと(このあたりから、この津島氏の文章のまとめは、ほとんど私のバイアスの懸かったものになっていきますから、よろしく)、『坊ちゃん』が生まれた、と。(ははは、は。自分の文章になったとたんに、めちゃめちゃな論理展開ですなー。) いえ、それは別に『坊ちゃん』でなくてもよく、二葉亭『浮雲』の内海文三でもよく、鴎外『舞姫』の太田豊太郎でも、……おっと彼は危ういところで、坊ちゃんや文三の仲間にならないですみましたが、要するに明治国家や社会の中の、エリート「落ちこぼれ」であります。 たとえそれが痛快であっても、客観的に見ればその地を敗れ去っていくという『坊ちゃん』の物語は、必ず敗れ去る者(=必敗者)独特の美意識と、近代日本の国家や社会が内包している矛盾や底の浅さをその視点から暴いていくという作品の原型を作り上げました。(漱石の前期作品群は基本的にこの原型を踏襲しています。) そんな日本文学の「必敗者」の系譜の発生原因が、最高学府である大学の理念ならぬ理念から生まれているという津島佑子氏の指摘は、なかなか面白いものでありましたが、実は冒頭本書の主人公も、この「必敗者」であります。 ただ、本書の主人公を見ていますと、『坊ちゃん』型の必敗者、つまり近代社会制度からのアウトローというより、文芸思潮的にいえば「私小説」の系譜という側面の方がより強く描かれていそうです。 それはつまり、実学や経済活動が唯一の正しい国家の根源であり、その研究と追求こそが最高学府の使命であると考えられていた時代に、いかにも「無用者」的である文学を目指す自分(=作者)の社会的学問的立場は何かを描く、ということであります。 それは例えば太宰治的にいえば(太宰は一筋縄ではいかない「私小説作家」でありますが)、彼がヴェルレーヌの言葉として引用した「選ばれてあることの恍惚と不安」、すなわち表現者の自負と苦悩を描き、そして究極的には、上述した「必敗者」へと繋がっていきます。 さて、上記に「必敗者独特の美意識」と書き、「表現者の自負と苦悩」と書きましたが(これは一種のナルシズムだと思うのですが)、思いの外にこの「賛同者」は多く、かなり多くの作家が一度はこのテーマに筆を染めています。(それは近代日本文学に延々と私小説的方法論が継続しているからでもありましょうけれど。) いわゆる「私小説作家」の作品は、ほぼ総てがこれに当たるように思えますが、彼ら以外でも、例えば芥川は『戯作三昧』に、谷崎は『異端者の悲しみ』に、三島は『仮面の告白』に、鴎外はそれをさらに二段構えにして『妄想』に描いており、他にも探せばきっとまだまだ出てくると思います。 さて、冒頭の佐藤春夫作品に戻りますが、主人公は「必敗者」と「選ばれてあることの恍惚と不安」を一身に引き受けているかのごとき人物です。ただ、佐藤春夫のオリジナリティとしては、やはりその文体にあると思えます。 姉妹作である『田園の憂鬱』の、情念と感受性の過剰めいた文体とはかけ離れておりながら、客観的、重層的に描く筆致は一方で終始ユーモアを含み、作品世界に広がりと深みをもたらせています。 ただ、設定された主人公の「必敗者」のあり様は、強調して描かれているゆえでありましょうが「憂鬱」というよりは「薄志弱行」めいていて、楽屋落ちと紙一重の所に位置し、単なる判官贔屓のような偏った美意識のようにも感じてしまいました。 本作も、日本文学になかなか柄の大きい骨太の主人公・作品が現れない一例、といってしまえば、やや単純化しすぎでしょうか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.03.14 06:14:50
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