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カテゴリ:明治期・反自然漱石
『草枕』夏目漱石(新潮文庫) 本書をぼうっと読んでいて(なぜぼうっと読んでいたかは以下に記します)こんな個所に出会い、突然ふっとグレン・グールドに連想が飛びました。こんな所ですが。 われわれは草鞋旅行をする間、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曽遊を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々して、したり顔である。これは敢て自ら欺くの、人を偽わるのと云う了見ではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曽遊を語るときは既に詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。 ははん、と気の付く方もたくさんいらっしゃると思いますが、不世出のカナダのピアニスト、グレン・グールドは晩年、この『草枕』をとても愛読していたそうであります。それも偏愛という言い回しが相応しいくらい。(でも、グールドといえば、有名な「変わったお人柄」ですから。) そして、グールドの読んだ『草枕』の英訳のタイトルが(えーっと、正確な言い回しを失念いたし、誠に申し訳ないのですが)、なんでも『三角の世界』とかなんとか、そんなのだったと、グールドの伝記でしたか、一時期私はグレン・グールドの関する本を図書館から次々に借りて読んでいたことがありまして、そんなことを一斉に思い出しました。 で、今回この個所を読んで、ははあ、ここから取っているんだなと分かった次第なのですが、この個所からタイトルを取るということは、翻訳者はここがこの小説のテーマだと考えたわけでしょうかね、少しストレートすぎるような気はしますが。 要するに、この部分は芸術についての説明個所であり、つまり『草枕』は芸術小説である、と。 なるほど、そういわれれば確かに特に間違っているとは思いませんが、『草枕』と『三角の世界』(不正確で申し訳ありませんが)の表現の持つニュアンスの違いたるや、甚だしいものがあると、くらくらと眩暈のするばかりに思うのですが、これは翻訳の限界なんでしょうかね。 逆に外国語から日本語に翻訳した有名小説なんかにも、元のお国の人が読んだら、「ソレチガイマス。トテモシンジラレナーイ。」などとお思いになっているタイトルもあるのでしょうかね。 もしそうならば、どんなタイトルがそれに当たるのか、ちょっと知りたいですね。 ……サルトル『嘔吐』とか、カミュの『異邦人』なんかに、そんな感じの部分があるとか読んだような気がしますが、どうなんでしょうね。どなたか語学にご堪能なお方、お教えいただけませんでしょうか。どうぞよろしく。 ということで、一応「芸術小説」の『草枕』なんですが、上記の文脈の趣旨の(「趣旨」があるとしてですがー)続きでいいますと、本書にうかがえる圧倒的な文章力は、翻訳でも味わえるものなんでしょうか。 新潮文庫には小宮豊隆の解説がついているんですが、そこに、漱石は本書を読むにあたって、中国の漢詩の源流の一つである『楚辞』を読んだとあります。 この絢爛豪華な漢語の世界は、読んでいて誠に惚れ惚れとする一方、本書の読者たる者はこの程度の教養は当然身に備えてなければならないといわれているとすると、私なんかは第一次面接できっちり撥ねられてしまいます。 この作品が書かれた時代には、これくらいの文章内容は直ちに理解しうる教養人が、けっこう沢山いらっしゃったんでしょうかね。それとも今でも、その総数としてはあまり変わらない程度の漢文脈教養人が、やはりいらっしゃるのかも知れませんね、単に私が無教養なだけで。 つくづく自分の無教養が情けなくなってきます。(この後、いつもなら「例えば」として、本文中の一表現を引用したりするのですが、今回はそれをしようにも、本文に使われている漢字を探し出すだけで、うんざりするくらい時間が懸かりそうなので、やめておきます。) 結局本小説を味わうということは(上記文脈の『草枕』と『三角の世界』の違いを味わうということは)、この漢文脈を味わうということであり(そこに私は自らの情けなさを感じたのでありますが)、それが同時に作品のテーマである「非人情」の内容でもありましょう。 しかし、小説の展開として整理してみれば、本書も「非人情」だけではストーリーを完結しきれておらず、そもそも文中にも「いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼等の特色である。」とあるごとく、『草枕』は人情的展開をもって作品の幕を下ろしています。 ここに気が付いた時、私は「小説の進化」という言葉がふと浮かんだのでした。 21世紀になって既に久しく、ここに至って「世間を出る事」のできている小説や芝居は、たぶんかなりの数に及ぶと思えます。 ただしこれは、進化がそうであるごとく、優劣を表すものではありません。現代は、人間的感情を完全に捨て去った地点から発想していく小説が可能になっているということで、そんな小説が、あるいは「非人情」の小説、なんでしょうかね。 だとすると、なるほど、小説も確かに進化しているのであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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