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カテゴリ:大正期・大正期全般
『犀星王朝小品集』室生犀星(岩波文庫) 上記短編小説集の読書報告の後編であります。 前編では何を書いていたかと言いますと、筆者室生犀星は、詩人としては一定の名を成していながら、小説家としてはロングセラー作家にならなかった(んじゃないかとわたくし愚考致すんですが、間違っているかしら)、ということでありました。 ともあれ、犀星という人の作品は、どこか知識人としての小説家という枠組みから大きく逸脱するものがあって、文学史上においても、十分な評価がなされていない気がして、しかし実際の所、その感覚は、本短編集を読んでいてもある程度納得がいくものであります。 さて、本書には7つの短編小説が収録されています。 それはタイトル通りことごとく王朝を時代背景としつつ、本書の解説を書いた中村真一郎が、堀辰雄が指摘したとする「犀星は歴史小説ででたらめばかり書いている」という語そのままに、時代考証は大いに首を傾げる作品ばかりであります。 ただしこの堀辰雄の言は、誤解無きよう、その表現の本質を申し添えておきますと、彼は、犀星を敬愛するがゆえにそんなことを言っているわけで、逆に言えば、そんな些末な事柄は、本作品の瑕疵でも何でもないと堀辰雄が確信しているということです。そしてこの確信の理由は、読めば分かるといえそうでもあります。 収録の7つの短編ですが、ことごとくが男と女の話であります。そして、男と女の「ある種」の関係を、究極まで追求すればどうなるかという、ケーススタディじみた話であります。 例えば『津の国人』と『荻吹く歌』という作品は、同趣向の、『大和物語』に源泉を探ることのできる(多分そうだと思うんですが、いかんせん半世紀ほども前に大学で習ったことですから、だいぶ違うような気もするんですが……)「芦刈伝説」のお話であります。 愛し合う二人だったが、余りの貧しさゆえに、ひとときだけの約束で別々に生活の糧を稼ぎ、その後必ず再会しようと約束し合うが……、という話ですね。 二作どちらも、結果は苛烈でありながらも、実にまろやかな作品となっています。とってもよくできていると思います。 また『姫たちばな』『野に臥す者』というお話は、究極の三角関係の話であります。 三角関係の話というのは、恋愛小説の一つのパターンではありますが、そんなストーリーの生むテーマを増幅する要素が、本作に限らず犀星の小説には、いかにも犀星らしい強烈に印象的なフレーズとして描かれます。例えばこんな……。 津の茅原はそのとき胸板のところに、があっと重いものを打ちあてられ、前屈みにからだを真二つに歪げてしまった。遣られたとそう思って支えるものを手でさぐろうとしたが、立木一本とてもなかった。再び、胸のところに熱を持ったものが一時にあふれた時に、すでに膝頭が立たなかった。かれは、潰れたように倒れたときに始めて和泉の国人の方をしっかり見つめることが出来た。和泉の人はやはり土手のうえに倒れて何かあたりを引掻くような恰好をしながらも、津の人ののた打つのを眼だけ生きのこっているように見つめていた。人間の死相というものはああいうものか知らと、灰をあびたような顔を見返した。だが、いまは笑うことも叫ぶこともできず、ただ、二人は同時に敵手の矢を胸にうけたことを知っただけだった。冷たい汗のような笑いがひとすじのぼった。 これは三角関係の男二人が「決闘」に至った場面でありますが、一つの状況を徹底的に追及するストーリーは、これ以外にも、『花桐』においては、年下の男との突き詰めた恋愛の形として描かれます。 「凝と見つめていると恋愛より恐ろしいものはない、これは処刑であると同時にあらゆる人間のくるしみがそこで試されているようなものだ。そとで見ているような生優しいものではない。ここにおよそ苦痛とか快楽とかの種数をかぞえて見たら、ないものは一つもないくらいだ。」 主人公の年下の男は、かくてこのような感想を洩らすに至るのですが、そんな理解によって恋愛の「処刑」は収まるものではなく、彼等はひたすらカストロフに突き進んでいきます。 これらほぼすべての短編に見られる、深く考えていけば頭の芯が痛くなっていきそうな、徹底的な純粋感情こそが、この度は「恋愛」という形で現れた犀星特有の「没理性」「反理性」的作品構造だと私は思います。 そして、この「反理性」が、まれに見る犀星の独自性の正体であり、また文学史の枠組みからは弾かれてしまう要素でもあると思います。 でも、この一種気味の悪さを伴うような「反理性主義」には、決して多くはありませんが、「長い」深い理解者が確実に存在するはずで、それは冒頭に書いた「ロングセラー」とは異なっていながらも、私達はそこに「幸福な読書人」を見いだすことができます。 読書の歓びの、まがうことない一端であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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