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カテゴリ:明治期・耽美主義
『お艶殺し』谷崎潤一郎(中公文庫) 中公文庫は『潤一郎ラビリンス』と名付けて、谷崎の短編をあるテーマに従って(例えば「マゾヒズム小説集」とか「犯罪小説集」とか、いかにも、ちょっと手に取ってみようかなと思わせるようなネーミングであります)、十六巻にもまとめて出版していますが、それとは別に、ぽつぽつと何作か、「バラ」でも文庫になさっています。 それは例えば、『鍵』『人魚の嘆き・魔術師』『盲目物語』『乱菊物語』『瘋癲老人日記』『武洲公秘話』などでありますが、傾向的にいいますと、『鍵』『瘋癲…』は少し違いますが、基本的にこれも「面白系」ですかねー。 谷崎が、「エンタメ」的に書いた作品といいますか、『乱菊…』『武洲公…』なんてのは、いかにもそんな感じのものであります。 そして冒頭の本作も、そんな「バラ」売りの短編集であります。 二つの小説が入っていますが、そのうちの「お艶殺し」は見るからに「エンターテイメント小説」であります。第一、タイトルがそんな感じではありませんか。(ただし、もう一つの短編小説は「金色の死」というタイトルですが、「エンタメ」系ではなく純文学系で、このカップリングには、何とも言い難いバランスの悪さというか、落ち着きのなさがあります。) ところが、その「お艶殺し」、エンタメ系ではありますが、これが冒頭より実に惚れ惚れするような文章でありまして、こんな感じです。 宵の五つの刻限に横町の肴屋の春五郎が酔っ払って飛び込んで来て、丼の底をちゃらちゃらさせながら、此の間銀座の役人に貰ったばかりだと云う、出来たてのほやほやの二朱銀を掴み出して、三月あまりも入れ質して置いた半纏やら羽織やら春着の衣装を出して行った後では、いつも忙しい駿河屋の店も、天気の悪いせいか一人として暖簾をくぐる客は見えない。帳場格子に頬杖をついて頻りに草双紙を読み耽って居た新助は、消えかかったしかみ火鉢の灰を掻きながら、「ほんとに寒い晩だなあ」と独り語のように云ったが、やがて片手を二三尺伸ばして、余念もなく居眠りをして居る丁稚の耳を引っ張った。 これは冒頭の部分なんですが、実に見事な文章ですよね。この先、一体どんなところに我々を連れて行ってくれるのか、わくわくしそうな文章であります。 かつて私は、文章力というのは、野球でいえば守備力に似ていると考えたことがありました。 バッティングというのは、どうしても好不調の波が出てきます。それはどんなバッターでも免れることはできず、ただ一流の選手は、「好」を長く、「不」を短くすべく努力と才能を持っているのである、と。(えー、この説は、たぶん誰かの話か文章を、私がまるまる「パクって」いるのだと思うんですがー。) 一方、守備力には波がほぼない、と。年齢による衰えはあっても、「絶好調の守備」や「絶不調の守り」なんて聞いたことがありません。 そして文章力も、それと同じではないか、と。 そもそもデビュー作の『刺青』を(厳密に云えばこれはデビュー作ではないようですが)永井荷風が絶賛した幾つかの理由の一つに、「文章の完璧なること」というのがありました。(私は少し前に、『刺青』を再読してみたのですが、本当に呆れるような見事な文章であります。) ひょっとすればこの文章力こそ、「天才」の宿るところなのかも知れませんね。 上記に「野球の守備力」と書きましたが、そんなちょっと地味な感じのするものとは全く別物なのかも知れません。 ともあれ、冒頭の素晴らしい文章で幕を開けたこの短編は、終盤、こんな感じの部分を持ちます。ここももちろん素晴らしい描写ですが、こんな感じ。 罵られて新助はカッとなった。女は喧嘩を吹き掛けて、破裂したまま物別れをしようと云うのが、真意らしかった。 「なる程己は間抜けだった。お前がそんな心たあ己あちッとも知らなかった。よくも今迄騙しやがったな」 いきなりお艶の襟を取って引き据えると、彼は有り合う衣紋竹で所嫌わずぴしぴしと撲った。 擲って居るうちに新助は、親に捨てられた子供のような心細い悲哀の情が、汪然として胸に塞がるのを覚えた。今夜の詰問の結果がこんな事になろうとは、……こんな惨憺たる事になろうとは夢にも想像して居なかった。女は彼の用意よりも、もっと根深く用意をして居た。此の女に捨てられたら自分は果たしてどうなるだろう?――そんな事まで新助はとても考えて居なかった。 この後新助はお艶を、タイトル通りに殺してしまうのですが、この辺りを読みますと、谷崎らしい文学的テーマがすっと現れ、なるほど大文豪というものは、さらりと書き流したような作品でも、文体は第一級だし、「勘どころ」はきちんと押さえているしと、その見事さに、私は何人も人殺しの出てくるこのお話に、とても快い読後感を持ち、感心賛嘆するのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.08.13 17:08:46
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