|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半男性
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年男性
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期作家
カテゴリ:明治期・耽美主義
『瘋癲老人日記』谷崎潤一郎(中公文庫) 読み始めはさほどでもなく、というよりいずれ説明されるのだろうと思いながら読んでいましたが、一向に説明が無く、何となく少し気になりながらとうとう最後まで読んで、そしてとうとう最後まで説明がなかったことそのものについて、じゃあ案外これは大したことではないのかなとも思う一方、いや、これも作者の仕掛けた謎かなと思うことがありました。 いえ、書いてしまえば大したことではないのですが、それはこの主人公の老人の職業が解らないということであります。 77歳の設定ですから、悠々自適の隠居暮らしであろう事は充分考え得るとしても、隠居に至るまでの職業についてが、全く触れられていないんですね。(谷崎作品に頻出する、幼年期や少年期の独特の思い出については、本作にも描かれているのですが。) 例えば本作の前の『鍵』では主人公の老人は(この老人は56歳の設定で、今ならとても老人とは呼べませんが、いえ、ひょっとしたら発表当時でも、かなり微妙に微妙な年齢で、わざとそのあたりを狙ったとも充分考えられるのですが)、大学教授と設定されています。 しかし、本作では、主人公の職業がまるで触れられていません。 ただ知識人であったであろう事は、具体的なものはないまでも、様々なディテールから読めます。 金銭的にかなり余裕ある生活であることは、結構書き込んであります。 嫁に300万円の猫眼石を買ってやるとか、庭にプールを作るとか、京都に行って、昼食は瓢亭で摂って夕食は吉兆で食べ、時間が遅くなったものだからそのまま吉兆に泊まったとか、かなりの暮らしぶりであります。 私が主人公の職業について気になりだしたのは、実は別の切っ掛けからであります。 それはちょっとした違和感なんですが、……はてこの違和感が、作品の書かれた時代と今の時代の違いから起こるものなのかどうか、私自身十分に考え切れていません。 とにかくその違和感を、身も蓋もない書き方で書きますと、この老人は回りの親族などに大事にされすぎているんじゃないか、と読んでいて感じるところがかなりあるということであります。 本作の発表は昭和36年でありまして、その頃と今と、老人を取り巻く社会的状況は、恐ろしく広く深い大断層を真ん中に挟んでいるくらい異なっております。 昭和30年代の日本では、老人に長生きを願うことは、ほぼ全員の国民がそうあれかしと考えていた価値観・倫理観であったように思います。 だから、それに則って、主人公の老人の回りの家族も様々な手はずを取ったにすぎないとも考えられます。 しかし、はっきり言って、この老人はかなりの「変人」であり、少々品のない表現になってしまい申し訳ないのですが、家族にとっては「厄介な」部分の少なくない人物であります。 お祖父ちゃん長生きしてねと素朴に言えないような状況が作品内に充分描かれているように思えます。 いくら昭和30年代のモラルがそうだとはいえ、主人公を取り巻く家族達が、この老人にとにかく長生きしてもらいたいという風にのみあれこれ手を打っていくという展開は、ひょっとしたら、筆者は別の読み込みを密かに求めているのじゃないかと、ひねくれた私などは思うのでありますが、いかがでしょうか。 そして、こんな風に思うわけです。 この年寄りを長生きさせると、いったい親族達にどんな利益があるのか、と。 例えば、この老人に特別なそして結構莫大な年金などがついている(文化勲章なんてのがそんなものだと聞いたような記憶があります)とか、何かの著作権を持っている(著作権の消滅時期の起算は死亡時と聞きます)とか、要するに本人限定の収入であり、本人が長生きすればするほど家族や子孫はその恩恵を受けるというタイプの収入があるんじゃないかと考えるわけであります。 そこで、主人公の職業が気になったのですが、上記のように書いてしまうと、これは作家そのもの、谷崎潤一郎そのものではないかと、まぁ思いますわね。 じゃあ、それを書かなかったのは、主人公と作者をそこまで重ねられることを嫌ったのかな、とか思うわけですが、……うーん、どうでしょうねえ。谷崎はそんな面倒な割にはあまり効果のない設定は、それまではしなかったように思うのですが。 ただ、主人公の老人のかつての職業が小説家でありながら、それを作品中にはほぼ書かなかったのが筆者の狙いであるならば(そしてさらにはそれの深読みをも狙っているとしたら)、それは作品終盤の恐るべきリアリズムにそれなりの効果を発揮しているともいえるし、しかし一方で、今までの筆者の作品なら、果たしてそんな効果なんかを目指しただろうかとも考えるものであります。 そのことを私は、「×→○→?」というタイトルで報告しようと思ったのですが、なんか前振りの話題が長くなってしまいました。 えー、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.07.07 18:24:02
コメント(0) | コメントを書く
[明治期・耽美主義] カテゴリの最新記事
|
|