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analog純文

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2016.11.27
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  『東京物語考』古井由吉(岩波同時代ライブラリー)

 ……えっと、まず、タイトルですが。……「東京」という地名が書かれていますね。
 ……えっと、東京というところは、なかなか魅力的なところですよね。関西圏の住人である私でもそう思います。
 
 先日、ハロウィンという日本年中行事仲間の中では比較的新参者の行事があったようですが(「ようですが」というのは、実はわたくしよく知らないからですが)、東京都内で行われたその行事関係のイベントは、圧倒的に東京一極集中を全国に見せつけた感じがしました。……って、この理解は正しいのかな。

 とにかく東京という街は、東京以外の地方人にとっては、取りあえず現在は(20年、30年後にはどうなっているかは知りませんが)、国内では圧倒的に独り勝ちというイメージの都会ですね。

 わたくしがかつて読んだ本で、「東京」のことを最も納得できる形で教えてくれたのは、たぶん司馬遼太郎の『街道を行く』の「東京編」だった(ちょっと調べてみたんですが「本郷界隈」という巻かな)と思います。
 近代日本の国家の歴史と重ね合わせながら、その中で東京(本郷界隈)の果たした役割を「配電盤」と定義しました。近代西洋文化を国の中に引き込み、全国に隅々に染み渡るように拡げていく「配電盤」。
 それを読んだとき、さすがに司馬遼太郎は見事な本質のとらえ方をするなぁと大いに感心したのを覚えています。

 さてそんな東京の話しです。さらにもう少し具体的に内容を予想しますと、そんな近代日本史の中での東京の位置づけを、様々な小説に描かれた形を追いかけながら読み解いていく、と、まぁ、そんな本であろうと、わたくし予想したんですね。
 事実、読み始めて冒頭付近にこの様に書かれています。

 先人たちの小説の内にさまざまな東京物語をたずねて、おのれの所在を知りたいという欲求が、この文章の始まりである。東京者というのは東京移住者、およびその子供たち、とひとまず範囲を区切る。そうなると関心のおもむくところはまず、そもそもの移住の初め、いかに取り着いて、いかに挫折屈託して、やがていかに居着いたかの身上話となり、それもなるべくは古い、あからさまな形がよろしい。

 まぁ、ほぼ私の予想通りかなと思いながら読み進めると、確かに「予想通り」といえなくもなかろうが、しかしそれにしてもどうしてこんなに違和感を感じるのだ、という読書になっていきました。

 なぜかななぜかなと思いつつ読み進めたのですが、思い当たる原因の一つは、何と言ってもその文体にあるのじゃないか、と。
 考えてみれば、私は古井由吉については今までさほどたくさんの本は読んでおらず、これも何とも読みにくかった印象のある老人を扱った長編小説と、これは間違いなく名作であろうという記憶は今も残っているもののしかし実に息苦しくうっとうしい名作であったという記憶も引きずっている『杳子』『妻隠』という作品しか読んでいません。
 しかし随筆においても、こんなにうっとうしい文体なんですね。(当たり前か。)
 例えば、こんな感じ。

 たとえばもっぱら一個の狂気の正体を見定めて闘おうとする、自己客観への強固な意志が、他者にたいして狂気めいたものを解き放ち、やがてはみずからの内からも狂気を喚びかかる、ということはやはりあるのだろうか。
 狂っていてはこれほど自己を客観できない、と言うべきか。これほど自己を客観できるという事自体がすでに狂っている、と言うべきか。
 《東京物語》考が、なぜこんなところまで来た。


 どうですか。この文は葛西善蔵の作品を取り上げた回の末尾の個所なのですが、最後の一文がとても奮っています、と同時に、なんかこのたった一文の書き方さえも、変に息苦しい感じがします。少し気持ちが悪いです。

 もう一つの違和感の原因ですが、上記引用文もそうでしたが本書で取り上げた小説作品はほとんどが「私小説」なんですね。(本書の終わり近くに荷風と谷崎が取り上げられていますが、その取り上げ方は私小説に準じるような形になっています。)

 筆者は、14回の連載中冒頭から2回ずつ順番に、徳田秋声、正宗白鳥、葛西善蔵、宇野浩二、嘉村磯多、と論じていきます。これは一応明治以降の「本道」の私小説作家を、年代順に追っかけたんですね。そしてこの私小説の系譜を何に拘りながらと論じていったかというと、二つ目の引用文にもありました「自己客観」です。

 つまり、描く自分と描かれる自分の関係をどう捉えるのかという、そもそも私小説にとっては存在論的アンビバレンツ状況を、一つ一つ抉るように書いていく「鏡地獄」のようなテーマであります。それを、これまた上記で触れた恐ろしいような粘着質の息苦し文体で綴っていこうというのですから、これはもー読んでいてちょっと大変状態に、わたくしはなったのでありました。

 まー、古井由吉の作品はあまり読んでいないとはいえ、このような読書になることはある程度見えていたはずでもありました。読んだ私が悪い。(いえ、別に悪くはありませんが。)
 とまれ、そんな作品です。
 怖いもの見たさの好きな方は読まれてはいかがでしょうか。
 (いえ、私にとって難解であったというだけです。作品評価ではありません。誤解なきように。)


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Last updated  2016.11.28 06:14:05
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