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2017.03.20
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カテゴリ:昭和~・評論家

  『漱石とその時代・第三部』江藤淳(新潮選書)

 かつて別の文章でも触れましたが、作家の関川夏央が、『坊つちやん』冒頭には「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る」とあるが、「坊つちやん」の「親」が無鉄砲であるエピソードは一つも書いてなく、また書かれてある内容からはそんな評価はしにくいと述べていました。

 私は読んだ時この指摘にはっとしたんですね。さすがに関川夏央は鋭い読みをするなぁと思っていました。
 この度本書を読んでいて、この関川指摘に答えたわけではありませんが(たぶん関川指摘より先に本書は書かれています)、その解釈が書かれていました。確かにこう読むと『坊つちやん』冒頭の矛盾は解決します。そしてこの解釈に、さほど無理があろうとも思えません。私はこの江藤解釈にも大いに納得しました。こんな風に書いてあります。

 つまりここでいう「親」とは、「些つともおれを可愛がつて呉」ず、「何にもせぬ男で、人の顔さへ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖の様に云つて居た」という「坊つちやん」の「おやぢ」のことではなく、むしろ「坊つちやん」という「型」を支えている江戸の文化的伝統を意味するものと考えられる。したがって「親譲り」とは、「坊つちやん」がそのような伝統を踏まえた江戸ッ子の類型であって、それ以外のなにものでもないことを示す宣言とも解せるのである。


 なるほど、ここで「坊つちやん」の「親」として描かれているのは江戸文化ということですか。うーん、なかなか見事な解釈ですねー。
 併せて筆者は、「坊つちやん」には固有名詞が振り当てられていない(「決して何野誰兵衛という名前のついた個人ではないのである」)ということも述べています。

 閑話ながら、『坊つちやん』の登場人物で固有名詞が振り当てられているのは5名だそうです。堀田、古賀、吉川、遠山ですが、それぞれ誰のことなのかよく思い出せませんよねえ。それは『坊つちやん』という作品が、「類型」として描かれているからです。
 そんな中でほとんど唯一の「類型」外人物(この人物には綽名がありません)は、言わずと知れた「坊つちやん」のフェイヴァレットの女性ですね。

 そんな知見が一杯書いてある本書ですが、第三部の時代は『猫』が始まって漱石が朝日新聞社に入社するまでです。
 本書の最後の一文は「このとき文科大学講師夏目金之助は、東京朝日新聞記者夏目漱石に変身したのである。」とありますが、いわば「素人小説家としての漱石」時代が舞台です。

 第一部第二部もそうでしたが、本書においても筆者は実にしつこく重層的に多方面から、自らの解釈や理解に対してこれでもかこれでもかと論証しています。時に強引すぎないかしつこすぎないかと感じる部分もなきにしもあらずですが、とにかく一つの主張を客観化するための努力は惜しまないといった筆者の鬼気迫る熱意が感じられます。

 例えば、『猫』に描かれている泥棒事件は、現実に漱石家が泥棒に入られたのをほぼそのまま踏まえていることを述べた後、このように書いています。

 夏目家の家計が、漸く少し潤い出した頃に起ったこの盗難事件の顛末は、戦争中にも拘らず東京の治安が安定していたことを、期せずして示すものといわざるを得ない。しかも盗品が、一つ残らずよく手入れされていたというのは、大量の死が日常化しつつあるなかで、人心一般がかならずしも荒廃していなかったことを物語る証拠ともいえる。

 どうですか。私は読んでいて少し穿ちすぎはしないかとも感じつつ、ははーん、このあたりが『漱石とその時代』の「その時代」の部分なんだなと思ったのですが、なかなかしつこい書きぶりでありますね。

 そんな事柄を重ね、筆者は明治という時代や社会についても様々な解釈をしていきます。しかし中心となっているのは、やはり素人小説家時代の漱石の内面であり、この時期の漱石の心の中を筆者はたぶん、この二つにまとめていると私は読みました。これです。

 1、西洋文明(ほぼ「=」で重なる明治維新以降の近代日本文化)との戦い。
 2、ごく個人的な(その分自己のアイデンティティに関わる)親族間の戦い。

 まず「1」については漱石自身のこんな談話があります。

 今日までは――維新後西洋なるものを知つて以来、西洋との戦争はなかつたのである。然しそれは砲煙弾雨の間に力を角するの戦争はなかつたといふまでで、物質上、精神上には平和の戦争は常に為されつつあつたのである。で、この平和の戦争のために独立も維持される、文明は倍々盛んになるといふ有様であつた。これは西洋から輸入された文化の庇蔭であつた、が然しこの庇蔭を蒙る上からその報酬として幾分か彼に侵蝕される傾向はあつたのである。これは諸事万端がさうであつた。精神界の学問の事は無論として、礼儀、作法、食物、風俗の末に至るまで漸くこれに則るといふやうなことになつた。つまり風俗人情の異つた西洋が主となつて来た。即ちこの平和の戦争には敗北した。

 この漱石の孤独な戦いが、多く彼のロンドン留学に端を発しているのは本書の第二部に詳細されています。
 続いて「2」についてですが、この戦いが主なテーマとして漱石作品に描かれるのは、晩年の『道草』であります。ただそれは晩年まで封印されました。

 しかしこの戦いがこの時期の漱石にとって、いかに重大な生きるか死ぬかというものであったかについて、筆者は『二百十日』と『野分』を分析しながら述べています。
 そしてそれに加え、この時期の漱石の感情にかなり極度な「近親嫌悪」(自らの親戚への、妻の親戚への、さらには子供達にまでの)が見られることを指摘しています。
 この論証もなかなかスリリングな展開となっています。

 さて冒頭でも触れましたが、本書の最後に漱石はプロの小説家になりました。
 考えれば、3冊が終わってやっと私たちが普通に認識する「職業小説家漱石」が登場したわけです。
 とーぜんわたくしは、第四部を続いて読むべきでしょうねぇ。(!?)


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Last updated  2017.03.20 10:56:09
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