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2017.04.08
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『漱石はどう読まれてきたか』石原千秋(新潮選書)

 冒頭の漱石関係評論の読書報告の後編です。
 前回は第一章の内容を中心に書いてきましたが、ここからは第三章の内容について考えてみたいと思います。第三章はこんなタイトルです。

  「第三章 いま漱石文学はどう読まれているか」

 つまりここには最先端の漱石作品研究の案内が書かれてあるのですが、そんな研究の紹介をいくつか読んでいくと、私はかなり戸惑ってしまうんですね。
 ここに書かれてあるのはいったい何なのだろうと。

 それは言い換えると、大学の文学部などで行われる学問としての文学研究とはいったい何なのか、何を目指しているものなのかが、道に迷ったように分からなくなってくるということであります。

 本書の「あとがき」に、現代日本の大学の文学部の変遷について触れた個所があります。
 そもそも1960~70年代に起こった大学文学部の拡大は、当時の「女性の急激な大学進学率の伸びの受け皿」として生起したが、1986年の「男女雇用機会均等法」以後、社会が好景気であっても不況期であっても、文学部は「政治的正しさ」によって相手にされなくなっていき、その勢いは急速に失われたとあります。
 (「政治的正しさ」とは、雇用における男女の差別撤廃を企図した法律施行の結果、文学部以外の学部に女子学生が多く進学したことを言います。)

 まぁ、改めて言われるまでもなく、現代における文学研究の社会的な必要性などは、始めから今に至るまであるようなないような、いや、ないようなないようなものであったわけですね。
 加えてそこに、もっと根源的な文学研究の限界(「限界」とは筆者は書いていませんが、たぶんそれは文学研究の「壁」の様なものだと思います)が現れてきます。
 こんな表現があります。

 小説の記述から「作者の意図」がわかるという幻想、あるいは日記や書簡などの記述を参照してであっても、「作者の意図」がわかるという幻想を持つのはやめよう。「作者の意図」通りに読まなければならないとか、「作者の意図」通りに読めるといった幻想を持つのもやめようというだけの話しである。

 ……ふーむ、なるほど。……しかしそうだとすれば、今の文学研究論文には一体何が書かれているのだと思いませんか。それを筆者はこんな風に述べています。

 (略)それは一つは、文学研究が「全体像」や「本質」を示すことができるなどということはあり得ないという認識から来ている。「文学研究は、ある角度(枠組)から読んだときにだけ、限定的ではあるが、あるまとまりを持った意味を引き出すことができる」というまっとうな姿勢が広まったからだろう。

 どうですか。文学研究は「全体像」とか「本質」は追究しない(できない)と書かれていますね。
 また、「まっとうな姿勢」と書かれてありますが、筆者はこの傾向を「文学研究を知的な仕事にしたいという願いもこもっていた」「これが知的な文学の論じ方というものだ」と補足しています。
 で、その結果どうなったかというと、これも筆者は書いています。

 文芸評論家や文学研究者の読みは「ふつう」でないことが多い。いや、文芸評論家や文学研究者はあえて「ふつうでない読み方」をするのが仕事なのである。よく、「学問とは常識を疑うところからはじまる」というようなことが言われる。小説の読みも同じで、「ふつうの読み方」がよくわかっている文芸評論家や文学研究者が、あえて「ふつうでない読み方」をするのがすぐれた文芸評論や研究論文の条件だ。もしそうでなければ、わざわざ活字にして世に問う価値などない。

 この部分についても、筆者はさらに「その意味で、文芸評論家や文学研究者は世間から見れば非常に特殊な読みを競い合っているとも言える。」と補足しています。

 重ねて、どうでしょうか。
 実際、本書所収の最先端の漱石作品研究の事例を読んでいると、まさにそんな感じになっています。
 例えば「それから」を読むにあたって代助と三千代の恋愛に触れず、この話を代助が実家である「長井家」から捨てられる物語だと読むなんていう事例が書かれています。(この読みは、実は結構面白かったのですが…。)

 しかしわたくし思うのですが、こうなってくると文学研究にとって対象である文学作品とは、料理の素材のようなものではないか、と。
 例えば、私はこの度、今まで和食の素材のように思われてきた味噌を使ってフランス料理を作ってみました。さあ、召しあがってください、と。

 で勝負は、食べた人がおいしいというか、まずいというかに懸かっている、と。
 筆者は「私は『学会ではこんなに面白い読み方が試みられていますよ』と多くの人に伝えたいと思っている。しかし、その『面白い読み方』が『商品』にならなければ意味がない。」と述べています。

 さて最後になりますが、私は現代の文学研究がそんなスタンスにあることを知って冒頭には「戸惑ってしまう」と書きましたが、それが面白くないということではないんですね。
 面白くないことはないが、それに何の意味があるのか分からないという戸惑いです。(ここに「意味」なんて言葉を持ってくると、また混乱が起こりそうなんですが…)
 
 一方本書の「あとがき」には、「現在でも、文学は広く読まれている。しかし、文学部はしだいに必要とされなくなってきた」という一文もあります。さもありなん。

 本質も全体像も述べずに特殊な読みを競い合うのが知的な文学の論じ方、つまり文学研究の最前線であるというのは、……うーん、たぶんそれでいいのだろうなとも思いますし、本当にそれでいいのかとも思うところであります。


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Last updated  2017.04.08 12:16:56
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