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2017.12.30
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カテゴリ:昭和~・評論家
​​​​​  『江藤淳と大江健三郎』小谷野敦(筑摩書房)

 本書は、基本的に、文壇ゴシップの積み重ねであります。
 この筆者はいろんなテーマの本を書いていらっしゃいますが(私もすべて読んだわけではありませんが)、何をテーマになさっても文壇ゴシップ集的な展開となっていて、まー、それが個性ですね。それを面白がる者も(私なんかもそうかな)おります。

 筆者もその辺りは心得ていて、「あとがき」に「いつもの通り、作品論はあまりやらず、逸話で語る伝記」と書いていらっしゃいます。
 タイトルのお二方の「逸話」はもちろん、それ以外の方のもたくさん書いてあります。
   そっちのほうをちょっと、短く書き出してみますね。

 西脇(順三郎)は詩人として名高く、のちノーベル賞候補と言われるが、ノーベル賞を貰いたがって醜態に近かったのは、堀口大学と並ぶ。

 (江藤淳と小林秀雄の対談の一部を引用して)……それは江藤の言うのが正しいので、私はこんなのを読むと、なんで小林秀雄のような馬鹿を日本人はありがたがるのか、情けなくなる。

 八三年には、小島信夫の『別れる理由』が野間文芸賞を受賞している。このむやみと長い小説は、読み通した人は少なく、『群像』に延々と連載された身辺雑記小説で、くだらないものである。小島はそれ以後も、この手のしまりのない身辺雑記を、しまりのない文章で書き続けて、なにゆえか偉い作家のように思われて世を去った。大江は小島から、才能がないとはっきり言われたと言っている。

 という感じでとても面白いですが、一応ここまでで置いておきます。
 で、さて、江藤淳と大江健三郎ですが、なぜ筆者がこの両名を並んで取り上げたかについては、今度は「序文」に、自分は大学在学中に大江のように小説家デビューを目指したがそれがかなわず、大学院に進んだ頃、今度は江藤のような文芸評論家になろうと方向転換したと、たぶんこれでしょうかね、なかなか夢多き青春です。

 そして本書を書こうと思ったきっかけについては、江藤の自殺後、年と共に江藤の存在感が薄れ、江藤関係の書物も売れなかったとか聞き、そんな中で果たして江藤淳は本当にそんなに偉かったのかという疑念が深まったとあります。
 なるほど言われればそんな気もしますし、でも現代に生きるほとんどの文筆業者の運命は、そうなっているんじゃないかとも思いますね。

 ともあれそんな形でお二方が並んだようですが、しかし考えれば、二人のことを書くに当たって、一方の人がすでに亡くなっているというのは、いかがなものなんでしょうか。
 物言わぬ死者の方に厳しくはならないでしょうか。

 まー、あっさり結果を言いますと、そうなっています。江藤淳にはかなり厳しい評価となっています。
 でも、例えば大江健三郎には、本書を書く上で手紙で疑問点を問い合わせ、返事を貰ったりしているのですから、これではまー、そうなるのも宜なるかなと思いますね。

 でもでもさらに、そもそも大江と江藤では文学者としての器がかなり違うという気もして、そこまで考えると、始めから無理な比較、非対称な二項対比だとも思います。

 それは、重要な文学的評価以外の部分でも、江藤が厳しい指摘を受けている所がかなりあって、実はそんなところが結構面白いのですが、少し江藤にかわいそうな気もします。例えばこんな部分。

 (引用文の後)江藤の自慢臭ふんぷんたる回想文である。最後の最後、遺書に至るまで、江藤はこういう大舞台で見得を切るような文章から手を切れなかった。

 江藤は賞をとったり芸術院に入ったりすると、手放しで喜びのエッセイを書く。稚気愛すべしとも言えるが、そういう自分を客観視する視点がないから、厭味に見える。

 (大江のジョークのエピソードに続けて)つくづく思うのだが、こういう話の出来ないところが江藤のダメなところで、江藤は、「やはり妻は怖いので」みたいな、よくあるジョークを使うことすらなく、自分が不遇だと思えば悲憤慷慨し、それを国家全体の大問題のように言うことしかできないのだ。

 いかがでしょうか。一方の大江健三郎は確かに、小説作品からも感じられますがなかなか豊かなユーモアのセンス(それはかなり個性的なものですが)をお持ちのようです。

 というわけで、わたくしは楽しく読書致しましたが、このお二方が並んで取り上げられる理由はあまり無いということが分かりました。

 ちょっと本線から離れますが、かつて斉藤美奈子が、文芸評論に村上春樹と村上龍が並んで説かれることが多いのを取り上げて、名字がたまたま同じだけでそれ以上の比較をする意味は全くなく、村上龍は比べるならむしろ田中康夫じゃないかと言っていました。田中康夫はどうかとは思いますが、基本的には私もそう思います。

 ただ、これは本書のサブタイトルにあるのですが、『戦後日本の政治と文学』という作家の二面性を、この二方が少なくともそれぞれに高い意識で持っていたという視点でまとめますと、この両者は十分比較の対象となり、また実際、彼ら以降そんな文学者は稀な気がします。

 もっとも筆者は、この二人の政治意識のあり方については、対極にありながらもどちらも理解しがたいような拙劣さにあると指摘しています。

 最後に、私が本書の中でもっとも笑った、大江のエピソードの記述を紹介します。
 高校時代大江が『オデュッセイア』を読んでいると「ガーター」という語が出てきます。英和辞典で調べると「靴下どめ」と書いてあるのですが、大江青年はよく分かりません。そこで側にいた学校図書館の女性司書に聞くと、大江をからかったのか、女子体育の先生に聞いてみたらいいと言われます。この先、引用しますね。

​ そこで狭い体育館へ行くと、女性の体育の先生は備品の点検をしていた。ガーターとは何でしょうかと訊くと、君、そこのドアを閉めなさい、と言い、スカートをぱっとめくって、これがガーターです、と言い、「いろいろ詳細にスカートの下の様子を見せて、説明してくださった。私の人生で、あれだけ圧倒的な経験は他にない(笑)、といいたいほどの思い出です」(『読む人間』)。どこまで本当だか分からない。​

 最後の「どこまで本当だか分からない。」のコメントが、実にいいですね。

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Last updated  2017.12.30 17:00:56
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