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2018.03.17
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カテゴリ:昭和~・評論家
  『漱石と日本の近代・上下』石原千秋(新潮選書)

 上下2巻、500ページほどもある本です。『坊ちゃん』から始まって(なぜか『猫』がありません)『明暗』まで、12章にわたって一作ずつ漱石作品を分析しています。
 力作です。啓発される部分も多いです。

 例えば、なぜ『明暗』は優れているのか。→その前の作品までは漱石は「近代人」を描いていたが、『明暗』に至って描かれるのは「現代人」である、とか。
 例えば、結局の所漱石が全小説を通じてテーマとしたのは(特に朝日新聞社入社以降)「家族小説」であり、そしてその「家族」を破壊しようとした「女の謎」である、とか。 そんななかなか興味深い指摘がたくさんあります。
 しかしこんなにいっぱい書かなくちゃいけないんだから、なかなか研究者も大変そーだなー、などと感心(同情?)もしてしまいます。

 でも一方で、そんな読みが本当にできるのかな、何の意味があるのかなと首をひねる箇所も、実は少なくないです。その理由はたぶん二つあると思います。

 一つは、これは以前読んだ同筆者の別の本に書いてありましたが、作品読解の新しい可能性を拓くためにわざとトリッキーな読みをすることがある、ということです。(申し訳ないながら、これはちょっと苦しいいいわけですよねー。素人の感想文じゃないんだから、いってみればやや不良な商品をそれと知りつつ売るってことじゃないですか。)
 まぁ、そんな理由が一つ。

 もう一つは、これはわたくし以前より感じていたことなんですが、漱石作品が研究されて少なくとも既に100年は経つでしょう。(だって没後100周年が去年だったかありました。)
 私が心配するのは、もう研究することが無いんじゃないかということです。新しい発見なんてもはや無いんじゃないでしょうか。
 
 だから、結果的にほんのちっちゃなことを「針小棒大」に論じねばならず、私のような素人が読んでいると、だからどうなん? 今までの解釈とどう変わっているのん? と思ってしまうようなことも、……えーっ、少なからずある、と。

 まず、そんなふうに感じたところを、一つだけ書いてみますね。
 『こころ』について論じられたところなんですがね。筆者は漱石のこんな文に注目します。(『こころ』のあらすじ紹介はパスします。)

​ その時の私には奥さんをそれ程批評的に見る気は起こらなかった。(「先生と私」十五)​

 この部分を取り上げて筆者は、「当然、『手記』を書いている『いま』なら静を『批評的』に見ていることになる。」と。
 これがわたくし、よく分からないんですね。「当然」なんて言葉が入っていることも含めて。

 確かに、「その時」はこうこうであったという表現は、今は違うという文脈で読める場合もあります。でも、そう読めない文脈だっていっぱいあると思うんですがね。シンプルに「その時」という限定された条件下の状態説明をしているだけのことで、ましてそこに「当然」なんて言葉をつけて、だから「いま」は違うとすっぱり言い切れるものなんでしょうか。

 この一見トリビアルに見える分析がなぜ筆者に取り上げられているのかと言いますと、筆者はこの「証明」を手掛かりにし、自らの主張に向かって自陣を大きく拡げていくからです。

 つまり、遺書を書いている「いま」は、「先生」は妻である「静」を「批評的」に見ているということは、Kの自殺の責任の半分程度を二人の女性(妻の「静」と、「奥さん」と書かれている静の母親ですね)が負うべきだと考えていることであり、さらにそうならば、「先生」の自殺の理由はまるまる半分無くなってしまうことになると展開しているからです。

 でも、そんな論理展開の最初の大切な部分の「読み」について、……うーん、本当にそう読める、いえ、そうとしか読めないように言いきれるものなんでしょうか。

 などという、細かいぼんやりしたよく分からない部分が幾つかありました。
 後もう一つ、読んでいてどうも違和感を強く感じたのは、「語り手」の絡んでいる部分でした。これは、要するに「テクスト論」というヤツですね。

 例えば『坊ちゃん』の「おれ」は、誰に向かって何のためにこの話を語っているのかという問いかけです。この「問題意識」も私にはよく分かりません。

 これは結局のところ作者の存在についてほとんど触れず、作品内部ですべてを完結させようとするからこんな事になると思うのですが、なんだか読んでいて少し「気持ち悪さ」を感じます。

 『こころ』についても、また同種の指摘があります。
 「先生」の手記には「妻」にはこの内容は知らせたくないとあるのに、そしてたぶん「妻」はまだ生きているだろうに、なぜ第1・2部の主人公「青年」は「先生」の手記を公開したのか、と問いかけているところです。

 でもねぇ、そもそもこれは漱石の創作なんでしょ。
 そんなところにまで踏み込んで、混乱しないものなんですかねぇ。それにたとえ合理的な答えが出たとしても、その答えに意味はあるのでしょうか。(もしそんなところにまでどうしても踏み込むのなら、そんな「青年」の手記をなぜ漱石が書くのかという所まで一気に行っちゃわないんですか。何の意味があるのか、……うーん、よく分かりません。)

 ……えっと、なんだか違和感部分ばかりになってしまいましたが、上記冒頭あたりの二つの私の疑義について、実は私の中で答えを持っています。
 一つめ「トリッキー」なまでにテクストにこだわるのは、やはり煮詰まりかけている(ように見える)漱石研究において、新しい発見は本文の一語一文をゆるがせにせず読むこと以外にはないのだということだと思います。一種の「原理主義」でしょうか。

 もう一つの「針小棒大」についても、そもそも文学研究というものがそういった「浮世離れ」な側面を確かに持っていて、しかしその蓄積こそが、学問的な進化と広がりを保証するからでありましょう。

 少なくとも、振り返ればはるか昔の我が大学時代の文学研究も、間違いなく大いに、大いに「浮世離れ」していたと、今となってはとても懐かしく思い出すものであります。

 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 





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Last updated  2018.03.17 22:32:19
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