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カテゴリ:昭和~・評論家
『テロルの決算』沢木耕太郎(文春文庫) なぜ山口二矢を書くのかという問に対する答えとして、筆者はあとがきにこう書いています。 声を持たぬ者の声を聴こうとする。それがノンフィクションの書き手のひとつの役割だとするなら、虐げられた者たち、少数派たらざるをえなかった者たち、歴史に置き去りにされた者たちを描こうとすることは、ある意味で当然のことといえる。しかしなぜ、無差別殺人の犯人や公金横領の犯人、あるいは婦女暴行や幼児誘拐の犯人たちには向けられる《理解しよう》というまなざしが、ひとり右翼のテロリストに及ばないのだろう。私には、そのような硬直したヒューマニズムに対する、ささやかな義憤がないこともなかった……。 このあとがきが書かれたのが昭和57年(1982年)です。このノンフィクションが文藝春秋に掲載されたのが昭和53年(1978年)で、そして本書のテーマの殺人事件が起こったのが、更に遡って昭和35年(1960年)10月12日でした。 約35年前の文章(特にノンフィクションの類の文章)の背後に流れる感覚は、今読むとかなりのズレを感じますが、それがまたある意味新鮮でもあります。(その個所は例えば上記引用文の後半部ですね。) また、「序章」にはこんな風にも書いてあります。 山口二矢は自立したテロリストだったのではあるまいか。 もし、そうでないとしたら、浅沼は文字通り「狂犬」に噛まれて死んだ、ただの運の悪い人というだけの存在になってしまう。 自立したテロリストに命を狙われたという事実にこそ、社会主義者浅沼稲次郎の栄光は存在し、なぜ狙われなければならなかったのかという、まさにその理由にこそ浅沼稲次郎の生涯のドラマが存在したはずなのだ。 この文章が、私にはよく分かりません。 ただ、この文の主旨を私が理解できないのは、35年前の文章であるせいではなくて、この事件に対する筆者の評価(思うにかなり感傷的でこけおどし的でもあるように感じる評価)に個人的に違和感を覚えるせいなのかもしれません。 例えば山口二矢の人柄を説明する際の表現として、「礼儀、言葉遣い、挙措、服装、そのどれをとっても折り目正しいものだった。それは二矢の同年代の少年と比べた時、並はずれていた。」などと書かれ、それは複数名の聞き書きからも一貫して読み取れる彼の人柄のトーンとされているので、一方で下記のように書かれた彼の人格の暴力性が薄れています。 二矢は赤尾の演説の邪魔をする者を決して許さなかった。宣伝カーの上に直立の姿勢で乗っていても、口汚く野次を飛ばす者を見つけると、車を飛び降り猛烈な勢いで殴りかかっていった。 二矢はますます凶暴になっていった。さすがの福田進が、もうそのくらいでやめておけというほどだった。そういうと、二矢は笑いながら、 「もう一人二人、頭をぶち割ってきます」 といって樫の棒を持ち、デモ隊に突撃していった。 二矢は昭和三十四年五月からの半年間に、十回以上も検挙され釈放されまた検挙されるということを繰り返した。 この二つの性格の激しい落差の正体が、たぶん本書のテーマの一つなのでしょう。 しかし事件からすでに六十年ほどが過ぎ、この事件の意味が結局の所「不毛」でしかなかったその後の歴史的推移を付け加えれば、やはりそこに現れているものは、山口二矢の思考の未熟さとしかいいようがないと思います。 一方で本書に、殺されるに至るまでの人生を振り返って描かれているもう一人の主人公、浅沼稲次郎についてはどうでしょうか。 山口が一種「純粋さ」の結晶のように扱われているのに比べ、現実政治の猥雑さの中に埋もれてあがいているごとくに描かれる浅沼ですが、筆者はその心の中にあるものを山口と同じものと捉えています。 徹底した行動主義と精神の純粋さ。 左右陣営に分かれ年齢も社会的立場も全く共通点を持たないように見えながらも、この両名が心の中に抱いている「珠」は同じ色合いであると筆者は述べます。 実は、筆者が述べたかったもう一つのものがこれなのだと思います。 上記に浅沼が殺された「意味」を探った一文を引用しましたが、精神の双生児のような両名に辿り着かせるのが本書のテーマではないかと思います。 ただ、描かれた結果の両名の「魅力」の差には、かなり著しいものがあります。 同じ色合いの心を持ちながらこれほどまでに「魅力」に落差が生まれた原因については、実はこれもあとがきに筆者はさりげなく触れています。 いま思えば、私に『テロルの決算』を書かせた最大の動因は、私自身の、夭折者への「執着」に近いまでの関心にあったような気がする。 ……うーん、どうでしょうか。 自らを客観視して分析しているのでしょうが、私にはこれは何とも不満で、「それを言っちゃぁおしまいよ」と感じたのでありました。
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Last updated
2018.04.29 13:24:28
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