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カテゴリ:昭和期・内向の世代
『漱石の漢詩を読む』古井由吉(岩波書店)
漱石作品が好きなもので、漱石についての「第三次産業」のような書物も、けっこう読みます。(最近はそちらの本の方が多い感じで、それはちょっとよくないんじゃないかと思っています。これについては「原理主義」でいきたいものです。) しかし、ちょっと触れきれずにいる漱石の業績部分が私にありまして、それが大学の英文学講義録系のものと漢詩です。 この二つは、当方に予備知識がほとんどないものだから、「敬して遠ざけている」状態であります。 そんな日々、たまたま図書館で本書を見つけました。岩波市民セミナーの筆者の講演録ということで、ひょっとしたらさほど難しくなく漱石漢詩入門をさせてもらえるかと思い、手に取った次第であります。 さて、筆者の古井由吉氏ですが、もうざっくばらんの文学流派で言いますと「内向の世代」の方ですね。 内向の世代といえば、すぐその上の「第三の新人」世代が次々と鬼籍にお入りになって、現在では文壇最年長世代ではありませんか。(大江健三郎あたりも世代的には同じですね。)……うーん、えらいものです。 ついでにちょっと思い出したのですが、確か庄司薫が筆者と日比谷高校同級生だと読んだことがあります。とすると、あの「万年青年」のように見える「薫君」もとうとう文壇最長老ですか。まさに光陰矢の如しですなぁ。 閑話休題。古井氏による漱石漢詩評論ですが、まず漱石の漢詩をこのように評価しています。 漱石の漢詩は、近代の日本文学の中の最高峰と言ってしまうと少し粗忽になりますが、しかし秀でた独立峰だと思います。しかも、漱石の本質、あるいは至り着いた境地が結晶されている。そこから、漱石自身のことを離れても、その後日本の文学がどう流れたか。文学どころではない。日本の言語がどう流れたか。これを見定めるにはひとつの定点として良い独立峰になるのではないか。 ……と、大絶賛ですねぇ。 しかし本書では、そこまでの高評価の理由分析にまでは至っているとは言えないように思います。少々風呂敷の拡げすぎかなという感じはします。 また、漱石だけに限らず、漢詩そのものの評価にも少し触れていて、漢詩が代表するような文芸上の漢文脈は、今後さらなる日本語の表現力を考えるとき決して外すことのできないものであるとまとめています。 で、さて、漱石の漢詩ですが、実は漱石が一定の期間まとまって漢詩を書いていたのは2つのピリオドであるようです。 1、修善寺の大患の養生期 2、最晩年『明暗』執筆時 修善寺の大患期の漢詩も、漱石の死生観が読めて面白いことを本書で教えられたのですが、以下には、最晩年の漢詩についての分析を報告したいと思います。 先ず筆者は、自らも実作者だという立場を強調しつつ、何カ所かで『明暗』をこの様に評価します。 『明暗』は、深読みする人が多いのですが、端的にその苦しさに沿って読むと、身につまされる小説です。しかし、とにかく筆が走りすぎている。それから、説明が多すぎる。会話が長すぎる。それまでの『道草』までの漱石の小説と比べると、コントロールがかなり効かなくなっている。 漱石の作品をとおして読み比べてみると、『明暗』は最も無理をしている小説だということが見える。『明暗』以前の小説は、主人公、あるいは他の登場人物にしても、漱石が選んだのは、自身がかなり自己投影をできる、そういう人物です。ところが『明暗』は、主人公の津田由雄、その細君、妹、それからどこぞのマダム、これらの人々に、漱石は違和感を覚えながら書いていると思います。 (略)とにかく、あの『明暗』は、著者の身になってみると、もう泥沼です。どこまで行ったらけりがつくのか、たしかな足場が取れるのか、難しい小説ですから、今日の分を書き終えるとホッとして、漢詩に向かったのではないかと、私には思えます。 ……どうでしょうか。こんな『明暗』評は、私は初めて読みました。私の読んだ『明暗』評価は代表的なもので言うと作家山田風太郎によるもので漱石作品の最高峰、未完については惜しんでもあまりある漱石の死、というものでした。 そういえば、漱石の直弟子筋の人々も(小宮豊隆代表)、『明暗』を圧倒的高みの作品と捉え、あわせて例の「則天去私」を語っていました。 その「則天去私」についても本書は触れています。ただその触れ方はかなり素っ気ない感じです。 則天去私とは、きわめて寒い境地なのではないか。 漱石の則天去私とは、屈折に富んだもののはずなのです。そんなに穏やかな悟りの境地ではない。むしろ、荒涼索漠としたものであるようなのです。 (略)これをみても、則天去私が、いかに尋常ではない事柄かがわかります。 …という主張の根拠となる漢詩ですが、筆者は何作か挙げていますが、私が一番興味深かったものを(一部分、書き下し文で)挙げてまとめとしてみます。 吾れ天を失いし時 併せて愚を失う 吾れ今 道と会して 道吾れを離る 人間 忽ち尽くす 聡明の死 魔界猶お存す 正義の懼 (※四句目の最後の漢字「懼(く)」は、立心偏ではなくて肉月です。) 一見よく見る東洋的悟道境地の逆説表現のようですが、意味するものを本当に正面からじっと見つめると、内面の激しい葛藤の中で、手を拱いて佇んでいる晩年の漱石の姿が浮かんできそうであります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.07.08 17:25:35
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