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カテゴリ:昭和期・後半男性
『さよなら クリストファー・ロビン』高橋源一郎(新潮社) 本書には6つの小説が収録されています。すべて文芸雑誌「新潮」に掲載されましたが、その時期は、結果的にとても微妙なものになりました。本書の最後に初出一覧が載っていますが、ちょっと写して書いてみますね。 さよならクリストファー・ロビン 「新潮」2010年1月号 峠の我が家 「新潮」2011年1月号 星降る夜に 「新潮」2011年4月号 お伽草子 「新潮」2011年6月号 ダウンタウンへ繰り出そう 「新潮」2011年12月号 アトム 「新潮」2011年8月号 最後の2作が初出順と本書の掲載順が異なっていますね。 それを元の形に戻して、順番に考えてみます。 まず最初、2010年の1月に短編を一つ発表し、1年後にテーマに類似性のある短編を一つ書いた、ということですね。 この2作について、より強くまとまりがあるのは(それが筆者にとってよいことなのかは分かりませんが)、後者の作品だと思います。(前者のタイトルが書籍全体の総タイトルになっていますが、それは明らかにこちらの方が印象的だからですよね。とってもいいタイトルですね。私はエルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリックロード」を連想しました。) とりあえず前者の小説は、登場人物たちが、自らが虚構内の存在であることに激しい虚無感を覚えそれに抗おうとするという作品、そして、後者の小説は、肉体の死と記憶の死をめぐるエピソードが書かれています。 どちらも筆者特有の、ポップな外観を装いながら、実は(かなりかなり)しっとりとした透明感ある哀愁に溢れた展開が、カウンター攻撃のようにいきなりせり上がってくるような作品です。 そして3つ目、その年の4月発表の短編も、多分その延長上にあると思われます。 元小説家の主人公が、ハローワークで「読む仕事」を紹介されて、様々な家庭でお話しを読むというものですが、例えばこんな仕事先が描かれます。 図書室には、たくさんの本があった。とりわけ、子ども向けの本が。ほとんどが、読んだことのないものばかりだ。その中から、「生まれてからずっと無菌室で暮らしてきた、末期の小児癌にかかっていて、心臓に先天的な奇形のある、すごくいい子」に合う本を選べというのだ。そんなことができる人間がいると思っているのか? ……といったよく似たテーマの作品を書いていたら、2011年3月、「あれ」が起こってしまったわけですね。 そして筆者は、私が知っている範囲の現存小説家の中では、かなり精力的に「あれ」について発信する仕事をなさってきた(今もなさっている)と思います。 本書の短編報告に戻りますが、4月に発表された後、とんとんとんと連続して12月まで隔月に掲載されています。上記にも触れましたが5つ目と6つ目が逆になっていますが、6つ目の短編は、確かに4つ目の短編に内容面と形式面において連続性があります。 そして、12月に発表された本書では5つ目の作品にこそ、最も「死」の影が見えます。「原発事故、津波をふくむ大震災」が最もイメージされやすい作品です。「死んだひと」が主人公で、こんな冒頭です。 死んだひとたちが、初めて、みんなの前に現れたのはいつのことだったのかは、誰も知らない。 最初のうちは、それが死んだひとだってことに気づかなかった、ともいわれている。でも、信じられないな。死んだひとの、あの、独特の感じに気づかない、なんてことがあるだろうか。 だから、おそらく、死んだひとたちが現れたとき、みんなは、自分だけの秘密にしたんじゃないかと思う。だって、誰だって、死んだひとを自分だけのものにしようと思うのが自然だからさ。 (引用文中の「死んだひと」の表記は原典の本書では、すべてゴシック体で書かれています。) 私がこの短編の、死者に対する名状しがたい親近感を読んですぐに頭に浮かんだのは、例えばいとうせいこうの『想像ラジオ』であり、その他一連の「大震災原発事故」文学(本当はそんな言い方があるのかどうか、寡聞にして私は知らないのですが)であったのは当然といえば当然でしょう。 筆者が、事故が起こる前から書き始めていた人の存在の意味、記憶の意味、忘れること、そして肉体の死などの要素が、強烈なインパクトを持つ現実体験を挟んで、一気にカタストロフの後を生きるという形で、また思いがけなくも、纏まったのかなと思います。 本書は2012年の谷崎潤一郎賞の受賞作品になりました。 これも、少し前に近未来の世界を描いた小説を読んだ時に感じたのですが、今さらながら私たちは既にもう、カタストロフの後、息苦しいディストピアの中に生きて久しいのかも知れません。
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Last updated
2018.07.22 08:47:25
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