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近代日本文学史メジャーのマイナー

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analog純文

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2018.10.28
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​  『砂漠ダンス』山下澄人(河出文庫)

 紀貫之という人はとても偉い人だそうですね。
 以前、高校の国語の先生をしている友人から聞いたことがあります。
 彼の話によりますと、紀貫之が偉いのは、三つの日本初の記録ホルダーであるからだそうです。

 三つの記録とは、
 一つ目、日本で初めてひらがなで日記を書いた。→『土佐日記』のこと。
 二つ目、日本で初めて勅撰集といわれる和歌集を編集した。→『古今和歌集』のこと。
 三つ目、日本で初めて「和歌の評論」を書いた。→「古今集仮名序」のこと。

 というように、一つでも「日本初」があればそれは歴史に刻まれるのに(ついでに高校教師の彼は、例えば日本で初めて「腑分け」つまり遺体を解剖された死刑囚は、ちゃんと名前が歴史に残っているぞという、例えになっているのかどうかよくわからない話もしていました。きっと授業で何回か話したジョークなのでしょう。)、それが三つもあるのは、いかに紀貫之が偉大であるかを語って余りあるということだそうです。

 つまり、さほどに、本当に初めて新しいことをするというのは難しいわけですね。
 そして、さて、本書です。
 面白かったですねー。確かに、新しい何かがありました。

 筆者は、本作ではなくその後に書いた作品で芥川賞を受賞なさったそうですが、いかにも芥川賞にふさわしいと私は思いました。
 そもそも芥川賞とは、ファッションショウの○○コレクションである、F1レースである、という説を私は持っていまして、小説表現の最前線を示す作品こそ芥川賞にふさわしいと考えています。
 そんなファッションでは実際には街は歩けないじゃないかとか、そんな速度で走れる一般道はどこにもないなどの意見は、犬に喰わせておけばいいと考えています。
 まさに本書はそんな小説でした。

 実は私は今少し興奮しているのですが、本当に新しいものに触れるというのはそれ程スリリングで、そしてあまりない経験です。
 では、本書のどこが新しいと私は思ったのでしょうか。

 そもそも小説の評価とは、私は、優れた物語と優れた表現(文体)で定まると考えます。
 テーマの素晴らしさというのはもちろんあるでしょうが、それは小説の場合「後付け」になるように思います。単独で素晴らしいテーマは、評論などで論じられるべきで、小説の場合は物語と表現が先行すべきだと思います。

 とすると、その小説が新しいというのは、物語が新しいか、表現が新しいかのどちらか(両方が新しいというごく稀なケース、また実際には、この両者はそんなに明確には分離できない等がありますが)でしょう。
 わたくしが思うに、本書は「表現」があたらしい、と。
 例えば、小さなところですが、こんな表現。

 私の住んでいる部屋は街の東を流れる川沿いのアパートの三階にある。街は国の北にあり、秋には住宅地まで熊が出る。

 明日、徹と名付けられる男の子が美智子という女から生まれた。

 この二つの部分は、本書にある二つの作品のそれぞれ冒頭部ですが、違和感が明らかにあるのは後者の冒頭でしょう。我々は普通「明日」と過去形「生まれた」を、このようにダイレクトには結びつけません。

 前者の文章で私が少しおやっと感じたのは、「街は国の北にある」という、一見何の変哲もないと思われるかも知れない部分です。でも、どこか少しこの表現はヘンじゃないですか。この書き方は、何かを説明したのではなく、何かを説明しないことの表明のような気がします。

 それはまた、読みにくい文体への志向とまとめることもできます。
 小説の場合は、表現意欲として読みにくさを目指すというのが明らかにあるからです。簡単にその意図を考えれば、きっともっと考えて読めということでしょう。

 例えば、吉田健一の文章などはそんな典型じゃないのでしょうか。(でも私は読みにくいせいで、吉田健一の作品はさほど読んではいません。)大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の頃の文体もとても読みにくかったなーと思い出します。

 本書では、この読みにくさは、様々なエピソードのつなぎ目にまず最も特徴的に見られます。併せて、次々と描かれるエピソードの、なんともまとまりのなさにおいても。
 でもこれは一読すると誰もが気づくところで、コロンブスの卵のように、誰かに実行されてしまうと、あーそんな手も確かにあったなーと、少し「ほぞをかむ」気持ちになったりします。

 具体的に挙げるには短い引用では抜きにくいこの「新しい文体」は、結局のところ二つの要素にまとめられるように思います。
 ひとつは、文体自体が強烈な自己主張をしていることです。典型的な一人称文体だと思います。だから、この文体が今後、はたしてどれだけのものや場面を表現することができるかという危惧も感じます。
 (かつて優れてオリジナルな文体を持ってデビューした作家は、例外なくそんな自らとの格闘の一時期を、キャリアの中に持ちました。例えば村上春樹などもそんな作家だと思います。)

 もう一つは、それはやはりこの文体で描かれているもののイメージの素晴らしさになるかと思います。なんと言っても文体だけが単独に素晴らしくあることは、なかなかに困難なことです。

 例えば本書に、コヨーテに変身した「わたし」が砂漠を駆けるシーンが出てきますが、そこに描かれるイメージの瑞々しさ、開放感、圧倒的な「自由」感覚は、描かれた世界がまるで子どもの空想画のようで、児戯にもあふれ、そしてはっとするほどインパクトがあります。

 そんな小説でした。
 本当はこの先に、その文体によって何が描かれていたのかということの「審判」があるのでしょうが、そんな「意味」は求めず今回は取りあえず、近来稀なほど私自身が楽しく読めたことが、とてもよかったです。


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Last updated  2018.10.28 15:10:47
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