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2018.11.10
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カテゴリ:昭和期・後半男性
  『夢の木坂分岐点』筒井康隆(新潮文庫)

 本作品は1987年に発表された作品で、この頃の筆者は、取り上げる作品のテーマが一気に深くなり、いわゆる「純文学」へ大きく傾斜した問題作を次々に発表なさっていました。(75年の『大いなる助走』あたりから始まって、『虚人たち』『虚航船団』『残像に口紅を』などですね。)

 私はそんな作品群すべてを読んだわけではありませんが、幾つか読んだ一連の作品の中で、本作は頭一つ飛び抜けている作品だと思います。

 発想、文章の技、描写力どれをとっても極めて高いオリジナリティと安定感を感じます。
 しかし、にもかかわらず、読み終えた時にふと立ち止まって作品全体を思い返すと、何ともいいようのない「不毛感」のようなものを覚えます。
 これは作品のテーマから来ているのでしょうか。
 どーも、よく分かりません。

 そもそも小説の作者というものは、自分の本が読まれる読者像をどのように考えているものなんでしょうか。
 昔の、例えば明治時代の純文学作家なら、多分夏目漱石が現れるまで、ほぼ誰もそんなことは考えなかったと思います。いえ、漱石登場後も、そんなことを考えて作品を作るのは文学の堕落だと考えていた作家は山ほどいたように思います。

 実は先日、私はある作家の講演会に行って来たんですが、その作家は、直木賞も受賞し、なかなかの人気の方でした。(講演会の後日、その作家の比較的最近の作品を図書館で借りようとしたら、二百人からの予約が入っていて驚きました。)

 その作家が講演の中で、どんな読者を想定するかについて語っていました。具体的イメージについては触れられてはいませんでしたが、とにかく一人の読者を想定して書くと語っていました。
 では、その読者とは、いわゆる一般的な、遍くどこにでもいるような「読者」なんでしょうか。また、その「読者」は、その作家をあるいはその作家の作品を、どの様に感じて読んでいる「読者」なんでしょうか。

 もしも本書の筆者もそんな「読者」を想定しているなら、その「読者」は筒井作品にどんなものを要求しているのでしょうか。

 本書の終盤に、こんなことが書かれてあります。
 主人公は(一応「主人公」です。と、断るのは、既に主人公そのものが極めて独創性の高い、そして「ややこしい」設定と展開になっているからですが。)五十代のベテランの小説家で、その彼の独白です。

​ 妻は婦人雑誌の座談会に出るのだし娘はアシスタント・ガールとしてテレビに出るのだろう。そして冷蔵庫には食べるものが何ひとつないのだ。収入は管理職並みで支出は激しくおれは雑誌に名を連ねるバラエティの一部となってねずみの競走に巻きこまれ文壇制度の中でラディカルであることを義務づけられ制度としての言語に縛られたままでアナーキイであれと要求される。賤業作家だ。ひでえもんだ。やめた方がいい。​

 「読者」との関係でいえば「文壇制度の中でラディカルであることを義務づけられ制度としての言語に縛られたままでアナーキイであれと要求される」というあたりが、関係がありそうですね。(もっともこれは、小説の「主人公」の独白ですが。)

 ふっと話は飛んでしまうのですが、当たり前ながら、……そんなことは当たり前ではありますが、この「読者」は、大江健三郎が考える(大江氏も考えるとして)、自分の読者像とはかなり違っているでしょうね。(重ねて、当たり前ですが。)

 ……と、ここでいきなり私は結論に到達するのですが、筒井氏は、この純文学作家の代表のような大江健三郎とは異なる我が「読者」を想定しつつ、本作のような極めて高い文学性を追求する作品を目指した時、戦略としてこの「不毛性」を選択したのではなかったでしょうか。
 それは、本来筆者が文学作品に求めている全き自由と、自らが、いや世界そのものが大きく異なっているという認識の帰結ではなかったでしょうか。

 この大いなる「問題作」に、円満な「傑作感」がないことは、筆者の望むところであったのかも知れません。そしてそれは、ひょっとしたら、大江氏も、絶えずシンパシィを感じるような感覚なのかも知れません。

 ただ私は、少しヘンな言い方になるのですが、大江氏の方に少し「地の利」を感じるものであります。


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Last updated  2018.11.10 11:41:49
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