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カテゴリ:平成期・平成期作家
『異類婚姻譚』本谷有希子(講談社文庫) 明治43年、夏目漱石は朝日新聞に、崖の下の暗い家に女房の御米とひっそりと住む主人公宗助を描いた小説『門』を連載していました。 作品の中で宗助は、死ぬか気が狂うか宗教に入るかという精神的な危機を抱き、その悩みは妻の御米によっても何ら癒されることのないものでした。 そんな『門』を読んだ谷崎潤一郎は書評に、しかしこの夫婦は羨ましいと書きました。 悪魔主義を標榜し、華麗な文才にものを言わせて文壇の寵児となり、実生活でも様々な女性遍歴を繰り返した谷崎は、後に小説『蓼食ふ虫』の中で、女房の心の中には鬼が住むか蛇が住むかと書きました。 さて、冒頭の小説は、そんな夫婦の話です。 古くていつも新しい結婚というシステムの話です。 本書冒頭の、夫婦の顔がそっくりになっていくという書き出しの、印象的ではありますが、しかしまだ常識的類推の許される範囲の指摘が、顔のパーツが大きく崩れ始めるというイメージに広がって、小説は一気に筆者の独創的な世界に入っていきます。 また、顔が崩れ出すシーンは作品内に再三描かれますが、それがいかにも気味が悪い。こんな感じ。 ある日、久し振りにiPadから顔を上げた旦那と目が合った私は、もう少しで悲鳴をあげて部屋を飛び出すところだった。旦那の目鼻の位置が、大幅に崩れていた。別人というより、人の顔としてもはや正常な形を保てていない。 「ねえ、こないだもらった梨ないの、梨。」 しかし旦那に自覚はないのか、恐ろしいほど離れた両目で私を見ると、「もうないの?」と、いつもと少しも変わらない口調で聞いた。 あるよ、と平静を装い答えたが、声が少し上擦ってしまった。 「じゃあ剥いてくんない?」 うん。私は回れ右してキッチンへと戻った。果物用の包丁を持つ手が少し震えている。私の許容できる、旦那のようなものの範囲をいよいよ越え始めていた。旦那の顔は、顔であることすらついに忘れたのだろう。 しかしこの不気味と諧謔をあわせもった描写は、寓話の形を取っているおかげでリアリズムを突き抜けており、とても見通しが良いことがわかります。 冒頭に私が取り上げた、明治末年に描かれた漱石の『門』はとても暗く、次の谷崎の『蓼食ふ虫』は昭和初年の作品ですが、主人公夫婦の内面がそのまま反映されたようにひどく冷たい。 それに比べると平成末期の本書の不気味な諧謔描写は、いかにも時代の進化(何を「進化」と呼ぶのかはとりあえず置いて)を感じさせます。 さらに筆者は、作品に次から次へと同様な不気味な諧謔を盛り込んでいきます。 二匹の蛇が相手の体を互いの尻尾から呑み込んでいって、とうとう「蛇ボール」になってしまう話。 他人の家の前に痰を吐いて激しい口論になった夫に代わって、そのアスファルトの上の痰を何度もティッシュで拭う妻の話。退屈だとしか思えないゲームを永遠にやり続ける夫の話など、小説を肉付けしていくイマジネイション豊かなエピソードが、いくつも描かれて行きます。実に達者な書きぶりです。 さらにクライマックスへ向かう直前の、旦那が「揚げ物」料理を作る話の突然の恐怖描写は、圧巻です。しかし本当のクライマックスはまだその先に控え、そこには想像力の射程をはるかに振り切ったようなラストシーンが現れます。 そこに描かれるイメージは、なかなか可憐な(そして不安定な)イメージです。 しかし、この幻想的イメージは、どこか「アモラル」な感じがします。 上記に私は「時代の進化」と書きましたが、ひょっとしたらこの「進化」は、いよいよ時代が身もふたもない突き放したような局面に入っていったという「進化」なのかもしれません。 さて、本文庫の解説を評論家の斎藤美奈子が書いていますが、そこに「今日でいう『こじらせ女子』の生態」というフレーズが出てきます。 物知らずな私は、これはあるいは社会学的な分野でのはやりの用語かなとも思いながら、なるほど「こじらせ女子」とは言いえて妙な表現だとひとしきり感心しました。 しかし一方で、何にでも「~女子」とつけたがる社会のはやりであることにも思い至り、そもそも「こじらせ」は文学の世界の基本テーマではなかったか。 『門』の宗助も、『蓼食ふ虫』の主人公「要」も、現代のいい方なら「こじらせ女子」だろうし、なにより私だって、「立派に」こじらせ女子であります。 いえ、私はなにもわけのわからない自慢をしているのではなく、既にその有効期限が切れて久しいといわれる現在の婚姻システムについて(本文中には「島流しと実は大差ない」というフレーズが出てきます)、しかし無自覚に日々漫然とそれを踏襲している私自身に対して、ひょっとしたら本書は本気で総括を突き付けているのかという思いが、少しぞくっとしながら感じられたという事であります。
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Last updated
2019.03.16 11:06:15
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