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カテゴリ:昭和期・三十年女性
『お供え』吉田知子(講談社文芸文庫) この度わたくし、初めてこの作家の作品を読みました。いえ、お名前については、かなり以前から存じ上げていました。 なぜかと言いますと、三島由紀夫の絶筆文芸評論『小説とは何か』に作品が取り上げられていたからですね。(三島氏の絶筆の一つですから昭和45年・1970年、うーん、今はもう大昔ですねー。) わたくし三島由紀夫の文芸評論については、わりと信頼しているんですね。いえ、三島氏はとてつもなく頭のよかった方だから、私は書かれてあることの恐らく半分くらいしか分かっていないだろうとは思いつつも(例えばフランス文学系の評論なんかはほとんど分からなかった記憶があります)、でも、まー、この方の文芸評論は信頼が置ける、あるいはとても面白い、と。 特に記憶に残っているのは、谷崎潤一郎の『金色の死』を川端康成の『禽獣』と比較して述べつつ、谷崎の「創作の秘密」に迫った文芸評論で、とてもスリリングで面白かったです。 同様に『小説とは何か』に何作か取り上げられている小説についても(例えば深沢七郎、稲垣足穂、国枝史郎などの作品)、後日それらを読んでみると、なるほどとても面白かったです。 そんな作家の一人として私は吉田知子の名前を知りましたので、わりと強い興味をずっと持ちつつも今日まで読まなかったのは、はてなぜなのか、我が事ながらよく分かりません。 というわけでこの度、読んでみました。(といっても、本書には三島が取り上げた作品は入っていないのでありますがー。) ……うーん、何といいますか、ある程度予想していた通りの作品群(短編小説集です)ではありました。 本書の宣伝文にこう書いてあります。 身に覚えのないまま神様に祭り上げられていく未亡人。山菜摘みで迷い込んだ死者たちの宴。異界で人間の極限の姿が浮かび上がる七作品。川端康成文学賞受賞。 ストーリー的には全くこの通りの短編小説たちであります。 いわば、夏目漱石の『夢十夜』の「第三夜」の延長のような作品群ですね。 わたくし、とても面白くてわくわくしながら、一作二作と読んでいきました。で、だんだんいろんな事を思い出していきまして、要するに、この手の小説は振り返ればけっこう同様のテイストの作品がたくさんある、と。 まず漱石つながりで挙げれば内田百けんの諸作品ですね。 上記にちらと名前を挙げましたが深沢七郎もこんな作品を書いていなかったかな、と。さらに私の読書体験で思い出すのは、河野多恵子の短編がかなり近いと思います。 また、エンタメ・ホラー系で言えば初期の岩井志麻子の作品なんかがこんな感じじゃなかったかしら。 日常の中にあるどこか気味の悪いものの描写、突然主人公を襲う悪夢のような攻撃、そしていわば自由意志に対する諦め、といった展開。(今ふと思い出したのですが、SM小説がこんなプロットじゃないでしょうかね。そういえば、上記の三島の『小説とは何か』にも沼正三の『家畜人ヤプー』が取り上げられていましたが。) と、ぼんやり考えながら読んでいったのですが、しかし収録された7作品すべてが、もちろん細部は異なっていつつも、ほぼ同様のテーマであります。 さすがに少し、飽きます。というか、ひょっとしたら、飽きるというのは、作品に何かが少し足りないんじゃないかと、わたくし思ったんですね。では何かとは何か。 結局のところ、このタイプの作品のポイントは、我々の意識とか人間の存在に対する違和感の恐怖(これを肉体と快楽に対する違和感に絞り込むと、SM小説に隣接するんですよね)ではないでしょうか。 そして、その違和感の描写方法(対象?)としては、大体この3つではないのか、と。 狂気・怪異・不条理 どうでしょうか。そんなにきれいに分類できるものではないでしょうが、本書のような悪夢的展開テイストの作品は、この3つのどれか(複数含む)を描いていると思います。 さて、その上で私が上記に述べた「飽きる」原因は何だったのかと考えましたが、あれこれ考えなんとか捻り出したのは、足りないのではなくて「ある種の過剰さ」でありました。 うまく言えている自信はないのですが、存在論的違和感に慣れ親しんではいけないのではないか、言い換えれば違和感に対してある程度「高踏的」であることが必要なのではないかということです。 もう少し具体的に言えば、悪夢の要素が多すぎるということでしょうか。作品全体の過半ほどが悪夢になってしまうと、それは見せ物小屋になりはしないかと感じました。 これはひょっとすると、想像力の出し入れということかなとも思われ、うーん、なかなか難しいものですね。 でも、この作家の独創性は、(まだ一作しか読んでいませんが)かなり高いものがあると、大いに感心を致しました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.03.30 18:58:14
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