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2019.06.15
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カテゴリ:昭和~・評論家
​  『リア家の人々』橋本治(新潮社)

 本年初め鬼籍に入られた橋本治の作品について、私は、やはりあまり読んでいないとしか言えないなーとは思いつつ、ここ半年ほどで、本書を含めますと、3冊読みました。後の2冊はこれです。

  『いつまでも若いと思うなよ』(2015年・67歳)
  『九十八歳になった私』(2018年・70歳)

 この2冊に本書(2010年・62歳)となります。いうまでもなく、ここに書いた年齢は、その本を書いた時の筆者橋本治の年齢です。

 「老い」というものを考えようとした時、シェイクスピアの『リア王』は、出るべくして出る本だと思います。
 (『リア王』については、わたくし、たぶん大学時代に一度読んだきりで、ほぼ内容を忘れていたもので、この度安易ながら、ネット記事を中心にいくつか調べてみました。まー、安易ではありますがー。)

 筆者のごとく極めて知的分析的な作家が(橋本氏がいかに知的分析的かは、私は『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で十分理解いたしました。私のアバウトな頭ではついていけない論理展開がたくさんありました)、「老い」を相対化するために『リア王』に触れるのは当然という気がします。
 (ついでながら、「老い」の相対化がいかに難しいかは、上記の2冊の随筆と小説に十分書かれてあります。)

 しかし、この度の冒頭の小説は、これはどうなんでしょうか。
 というのは、本書の感想について、小説の好きな友人と意見を交換したんですね。
 私はわりとアバウトに、けっこう楽しく読んだということを言ったのですが、わが友は、本当にそうなのかという持論を展開し、以下のようなことを述べました。

 彼の言ったのは、結局のところ、本書の構成が崩壊してはいないかということであります。それについては、私も読みながら薄々、えーっ? などと思うところもあったのですが、彼はさらにこのように言いました。

 ——例えば、文芸評論であれだけ三島由紀夫の作品を明晰に分析した筆者が、なぜ自作になるとこのように構成が「崩壊」しかかったものをそのまま完成品として世に出すのか。
 とても考えづらいが、強いて意味付けをするなら二つ思いつける、と。

 彼は言います。この小説が一番面白いのは、第一章であろう、と。
 ——第一章にはまだ「父・文三」の物語が描かれている。その物語とは、タイトルに「リア王」とあるので、本来優れた人格のものが老いによって崩れていく話なのかと思いながら読むと、そうでないことが分かった。文三は、本質的に人間不在の人格として描かれているのだ、そしてそれは、かつての日本の家父長制家庭の閉鎖性と、官僚エリートの非人間的実像によって。

 ——そのように読むと、第一章の父の物語はそれなりに面白い。しかし、第一章の終了とともに、父の物語は完全に終わってしまう。そのあと描かれるのは、ほとんど濁ってしまったような彼の意識である。

 ——終わった父の物語の後にまず書かれるのは長姉と次姉の遺産を巡る駆け引きだが、これはいかにも類型的ではないか。話は心理描写を中心に展開していくが、この描写が評論家的で、小説的な広がりを持たない。小説的な肉付けと広がりを持たない分析はひたすら小説を貧弱にしていく。

 ——そして中盤から大きく書かれだすのは、筆者による「時代」の分析である。個々には面白い指摘も少なくないが、小説としてはどんどん拡散していかないだろうか。そして、描かれていた長姉と次姉の確執も、唐突に尻すぼみになる。

 ——最後の第四章にクローズアップされるのが三女の恋愛話だが、この若い男女の恋愛の崩壊過程は、やはり「陳腐」とはいえないか。1970年頃の日本社会ならびに日本国民の、骨がらみのような男尊女卑意識がその根底にあるのだろうが、そしてそれはそれでわからないわけではないが、はて、この小説はそんな小説なのかという思いが強い。

 ——そしてすべての物語が、唐突に終わる。

 ……というふうに彼の話は、まー、少し身もふたもない批評になってしまったんですがね。それを聞き終えた後で、私はふと気が付いたことを尋ねてみました。

 なかなか厳しい君の意見だが、しかし君は、君が言うところのそんな構成の破綻について、意味付けできる可能性が二つあるといったね。それは、何。

 ——ふたつといったが、一つは何ということはない。要は本作は未完だと考えることだ。ただ、そのように考えることは(過去の日本文学作品には結構多いが)、何でもありになってしまいかねない。

 ——後、もう一つは、本書の濁ったような構成や展開が、父・文三の老いて濁っていく意識の比喩になっているという見方だ。
 例えば、第一章の末尾の一文、つまり文三の老いの始まりの場面の描写が、最終章の末尾の一文と全く同じ形になっているのは偶然ではないだろう。こんな相似文だ……。

 文三は、忘れていた感情を、高い木の上の柿の実に見る。それは「寂しい」という感情だった。(第一章末尾)

 家の中が、暗く、寂しくなる。そのことだけは確かだった。(最終章末尾)

 ……なるほど。本書の崩れた構成(それが崩れているとして)は、主人公文三の加齢により混濁していく意識そのものの象徴であるという考え方ですか。
 そういえば、と私は思いつきました。
 冒頭に挙げた『九十八歳になった私』という小説は、まさに耄碌も芸のうち、描写も構成も刻一刻と霧の中……という小説でありました。……。


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Last updated  2019.06.15 07:32:23
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