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カテゴリ:平成期・平成期作家
『伯爵夫人』蓮實重彦(新潮文庫)
もうこの小説が発表されて3年にもなるのですね。文庫にもなってますし。 新潮文庫の裏表紙の文章に、こうあります。 東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で突如発表し、読書界を騒然とさせた三島由紀夫賞受賞作。 と、本作のスキャンダラスな状況が一応説明(上記の引用文だけでは、半分だけですが)されています。 スキャンダラスな理由の一つは、「東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で突如発表」という、そのまんまの部分です。 何といっても東大総長までしていた方ですから、功を成し名を遂げたそんな方でも、やはり小説を書きたいんだという(下記の「二つ目」に比べれば少し地味な感じの)驚きですね。 私はこの本のことを知った時、ふっと文芸評論家中村光夫のことを思い出しました。 中村光夫は私の好きな評論家の一人ですが、大学時代から文芸評論を発表し、長く芥川賞の選考委員もして、その間発表した『谷崎潤一郎論』や『志賀直哉論』では、大家をぼろくそにけなすような内容の評論で、そして、52歳で初めて小説を発表した方です。 中村光夫が小説を発表した時も少し話題になりましたが、私は、えっ、あの文芸評論家が、という程度の感想でしたが、やはり否定的な意見もけっこうあったようです。 幾つになっても、どんな人生キャリアがあっても、人は小説を書きたくなるのでしょうか。そういえば、村上龍が、小説家はターミナルの職業だと書いていたのを思い出します。様々な職業を経験して人は小説家になるが、小説家から次のキャリアに移る人間はほとんどいないという内容だったと思います。そうかもしれません。 二つ目のスキャンダラスの理由は、この小説の量的な割合で言いますと、たぶん3/4くらいが性描写であるということです。やはりこれが、この度の「話題」の中心でしょう。 シンプルに考えても、(しつこく)「東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で」こんな性的な話をよく考えているものだという驚きというか、うーん、まー、何というか、少々週刊誌的に言えば、少し気味が悪い、と。 (いえ、これは撤回しなくてはいけない表現ですかね。「性描写」をするのにもちろん年齢制限はありません。) で、そんな作品が三島由紀夫賞に選ばれたんですね。 以前私は、又吉直樹の芥川賞受賞作『火花』の読書報告で少し触れたように思いますが、本作(『伯爵夫人』のこと)についても、著者名著者経歴を完全に覆面化しても果たしてそのまま受賞したのだろうか、と。 ただし以前書いたように、この仮定は、仮定に過ぎないという意味でほぼ無意味です。つまり、事実としてその著者の作品が受賞しただけだ、と。(賞とは本来そういう結果論だ、という解釈ですね。) という本作を、この度読みました。 で、私としては、早い話ー、よー分からんのですね。 何がよー分からんのかと言えば、ちょうど三島賞受賞という事で、三島由紀夫に関連して考えてみたいと思います。 三島由紀夫の絶筆となった文芸評論『小説とは何か』の最終章に(つまりほぼ自殺が意志されていた頃に書かれた文章に)、小説は動物園で見たミナミ象アザラシの如きものであると書かれています。 そしてその説明が書かれてあるのですが、簡単にまとめますと、ただ存在しているだけということが表す存在の無意味性、といったところでしょうか。つまり、存在だけに意味があってそれ以外には意味がない、という事ですかね。 (こうまとめると、この小説の定義は、遺作『豊饒の海』最終巻『天人五衰』のラストシーン「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」という表現に共鳴していることがわかりますね。) ……えー、本線に戻りますが、私は本書を読んで、そんな感想を持ちました。 これは一体なんだと考えたところで、多分考えても仕方がないものがここにある、と思ったんですね。だから「よー分からん」と上述しましたが、あらゆる評価をすり抜けて本作が存在しているだけという理解をするべきなのかなと考えました。 ただ、読んだ後じーと考えていてふっと思ったのは、とにかく本作は存在自体が、何か、小説であったり、文学であったり、或いは批評であったりするもののパロディではないかという感じでした。 そしてそのパロディには、やはりいかにも80歳の筆者の(あえて書きますと「老人らしい」)「毒」が紛れ込ませてあると思いました。 私は本作について、それ以外ほとんど意味付けをすることはできませんでした。 でも上記の直感だけは、多分まるで外してはいないんじゃないかと思っています。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.09.01 11:26:44
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