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カテゴリ:昭和期・後半男性
『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) 1.妻の離婚請求の謎→未解決 2.雨田具彦の変貌(人柄・画風)の謎→詳細は未解決 3.「騎士団長殺し」の絵の謎→未解決 4.免色の生き方(黒歴史)の謎→詳細は未解決 5.宮城県の女とスバル・フォレスターの男の謎→詳細は未解決 6.鈴の音の謎から騎士団長の登場 村上作品読書報告の後半です。 前回の最後に、騎士団長が登場するまでの本書の「謎」の主だったところを取り上げてみましたら(上記)、その謎はほとんど最後まで読んでも解明されていないという事がわかりました。(上記箇条書きの「→」の後の部分です。) つまり、基本的にほとんどのストーリー上の疑問点は、その後解決されることもなく、謎のままにほっぽり出されているということです。 というか、「6」にあたる一番大きい騎士団長の登場の謎が謎のままになっている以上、本文中にも同種の表現がありますが、「この世界は何が起こってもおかしくない世界」になってしまっていて、それ以降、「私」には、今までの謎を謎として捉える関心興味がなくなってしまっています。謎が謎じゃなくなっています。 確かに、もしも現実に「6」のようなことが起これば、ほかの謎は吹っ飛んでしまって、どうでもよくなっても仕方ないといえば仕方ないですよね。(しかしそんな世界を「地下二階」のフロアというのでしょうか。でもそれって、ちょっと都合よすぎませんか。) それでは「6」に至るまでの次々に起こった謎とは何だったのか、例えば最大の謎の騎士団長の登場にしても、登場までは即身仏の話とか上田秋成の『春雨物語』などを出してきて引っ張っておきながら、騎士団長が登場するや、彼はどんどんユーモラスな存在になっていきます。 それはまるで、良くいっても『ファウスト』のメフィストフェレス、いえ、のび太君のドラえもんともいえそうな、さらには、奥様は魔女とか、しゃべる馬とか、ドリトル先生のポリネシアなどまでアナロジーを許しそうなキャラクターであります。 つまり、騎士団長登場に至るまでの一見スリリングな謎とは、そもそも「幽霊の正体見たり」であって、もはや何でもありの世界が登場してしまうと、はったりこけ脅しのたぐいの筆者が読者の興味を誘導していただけの本質のない謎に過ぎなかった、……とまでは、……うーん、少し言いすぎですかねぇ。 初読の時は、きっと私ははらはらしながら読んでいたはずですものねぇ。 さて、とにかくそんな騎士団長は、作品の中に登場してしまいました。 しかし、……やはり、どうなんでしょう。この存在は、あまりといえばあまりに不可解すぎませんか。上記に私は、村上作品に意味を求めてはいけない(特にストーリーに関して)と書きましたが、それでもあまりに無意味すぎませんかね。 そもそも、この騎士団長はいったい何のために作品に出てきたのか、これについても、最後まで読んでもさっぱりわかりません。試しにこの騎士団長がしたこと(登場人物にさせたこと)を挙げてみますと、この二つでしょう。 1.自らを殺させることで、「私」を「地下巡り」に誘った。 2.免色邸で「まりえ」にアドバイスをした。 多分この二つだけだと思います。 まず「1」について、「私」が騎士団長に助けを求めたのは「2」の「まりえ」失踪の解決のためですが、「私」の「地下巡り」が「まりえ」失踪の解決にどれだけ役に立ったのか、まるでわかりません。(思うのですが、解決に役立ったというのなら、もう少しその接点を、それこそほのめかしてもよかったのではないでしょうか。) 次の「2」についても、騎士団長は「まりえ」を激励しアドバイスを与えますが、そもそもそんなアドバイスを与えなければ(決定的なのは、女中部屋に隠れていれば見つからないと言ったことでしょう)、「まりえ」はずっと早く免色に見つかり、少々ばつの悪い思いもしながら、それでも4日間も行方不明になるなんて馬鹿げたことにはならなかったでしょうし、あるいは、彼女の母親についての大切な情報を、免色から聞けた可能性だってありそうです。 ということは、騎士団長は、(関西弁で言うところの)「いらんことしい、いらんこと言い」ですか。いえ、上記の二つをセットで考えれば、彼こそこの失踪事件の「マッチポンプ」、首謀者ではないでしょうか。 それではそんな騎士団長を、我々はどう考えればいいのでしょう。 かつて村上小説には、かなり初期の段階からいわゆる「非存在」なものが再三姿を現してきました。 その代表は、羊男でしょうか。これは、基本的には騎士団長と同じでありながら、小説内での「意味」は明らかに大きく異なって、強烈な存在感と影響力を持っていました。 考えてみれば、上記に「マッチポンプ」と書きましたが、本書で騎士団長が殺されねばならなかった原因は、いわば「まりえ」の失踪であり、でもそれはそもそもローティーンのちょっとしたいたずら心(関西弁で言うところの「いちびり」、あるいは子供の好きな「探検」?)によるものではありませんか。 そんな軽々しいものによって出刃包丁で殺されてしまう騎士団長という造形は、思えば、羊男の存在感といかにかけ離れていることでしょう。(考えるほどに騎士団長は、卑小というか何というか、なんか、情けないかな。) 小説の中の非存在を信じることは、言うまでもなく快い小説鑑賞にとって、とても有効な手段です。しかし、その非存在が描かれたイメージに、深みや広がりがあまり感じられないとすれば、その非存在とは何なのでしょうか。 作品として、高い評価のできるものなのでしょうか。 「意味を問うな」というのなら、別にそれでもかまいません。 しかし、羊男は信じるに足りても、騎士団長については、信じる以前のところで戸惑ってしまう読後感を、この度の私は抱いてしまいました。 クラシック音楽の本を読んでいると、「説得力のある演奏」という言葉が結構出てきて、私のような素人でもなんとなくこの言葉のニュアンスはわかります。 それはとても説明のしにくい言葉ではありますが、音楽を聴いての実感としては、とても納得できる感覚です。 ひょっとしたら村上春樹は、読者に望む自らの小説の評価として、この言葉を抱かせたいと思って作品を書いているのではないとまで、ふと、私は思っています。 作品から意味を離れて、ただ読者を「悪いようにはしない」とすれば、この「説得力」という評価は、なかなか重要な指標だと思います。 ところが、今回の読書は、私にとって微妙に説得力の感じられなかった読書でした。 ……うーん、オールド村上ファンの私としては、誠に残念であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.10.14 20:34:59
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