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2019.10.22
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カテゴリ:昭和~・評論家
  『鴎外闘う家長』山崎正和(新潮文庫)

 鴎外についての本をあれこれ読んでいますと、「扣鈕(ぼたん)」という詩がいろんなところに出てきます。それを何度となく読んでいると、とても哀感があっていい詩に思えてくるのですが、本当にいい詩なんでしょうかね。

 この詩は、『うた日記』に収録されているのですが、『うた日記』は明治37年から38年にかけて鴎外が日露戦争に従軍した時の、陣中で手帳に書きつけた詩歌俳句を、月日順に編み明治40年に発行した書籍です。

    南山(なんざん)の たたかひの日に
    袖口の こがねのぼたん
    ひとつおとしつ
    その扣鈕惜し

    べるりんの 都大路の
    ぱつさあじゆ 電燈あをき
    店にて買ひぬ
    はたとせまへに

    えぽれつと かがやきし友
    こがね髪 ゆらぎし少女
    はや老いにけん
    死にもやしけん

    はたとせの 身のうきしづみ
    よろこびも かなしびも知る
    袖のぼたんよ
    かたはとなりぬ 

    ますらをの 玉と碎けし
    ももちたり それも惜しけど
    こも惜し扣鈕
    身に添ふ扣鈕 

 どうですか。「ぱつさあじゆ」とか「えぽれつと」とか、現代ならカタカナで書かれるだろう単語が平仮名で書かれているためにノスタルジーが募って哀歓が漂うのだとすれば、同時代の感じ方とは異なるように思え、本質としてこの詩が持つ切ない美しさではないような気もして、どうもよくわかりません。

 ところで、この詩がなぜ鴎外を説く文章に再三顔を出すかというと、それは第3連の「少女」が、鴎外の処女作『舞姫』の「エリス」のモデル問題に大いに関係するからですね。後述しますが、「エリス問題」は、鴎外を理解する生命線の一つです。

 鴎外について、特にその伝記めいたものを説く本を何冊か読むと、これは私の偏見なんでしょうか、どんどん鴎外が嫌いになってくるのを止められません。
 その理由は、3つです。(自分でもどうも困ったので、なぜかと考え3つにまとめたのですが。)

 1.「エリス事件」でのドイツ女性への不誠実。さらには、それに関連する最初の妻の赤松登志子との結婚に対する無責任さ不誠実さ。
 2.初期文学活動中の、さまざまな論争における権威主義と衒学趣味。論争相手に敬意もなく、勝てばいい式の自己愛的な仕方。
 3.「脚気問題」における当該責任者としての、目を覆うような誤った権威主義的観念的主張と責任逃れを免れない指示。また、それに対する後日での無反省ぶり。

 ……うーん、こうして改めて書くとますます鴎外が嫌いになってくるのですが、しかし、今更説くまでもなく、筆者の人間性と作品の芸術性とは、基本的に別のものですよね。
 まぁ、ただし、「基本的に」ではありますが。

 例えば、太宰治なんて人は、そんな人柄の人が近くにいたらちょっと引いてしまうような人ですよね。中原中也なんて、もっとそんな感じの人でしょ。宮沢賢治なんかもそうじゃないですか。

 であるなら、鴎外が、人格として権威主義的衒学的、実はかなりキレやすく、上から目線の「ドーダの人」(この「ドーダの人」というのは、鹿島茂の言い回し)であっても、いい文学的作品を書けばそれでいいじゃないかと思うはずですが、どうでしょうか。

 これも私の今までの誤解のせいでしょうか、私の中では、鴎外作品は、筆者が人格的に優れているから芸術性が高いのだいう、なんか鴎外と鴎外以外と、ダブル・スタンダードな考えを持っていたような気がします。

 それがここになって急に、筆者の人格は中原中也並みにひどいけれど、作品はこんなにいいんだからそれでいいじゃないかと言われても、……えー、少し困ってしまうんですがねー……。

 (もっとも、鴎外の日常は、例えば中也の日常などとは多分「月とスッポン」くらいの違いはありましょうし、また、そもそも太宰・中也的人格欠陥と、鴎外の「嫌な」人柄は、質的にはかなり違っていますが。)

 例えば鴎外の珠玉のような短編小説。「じいさんばあさん」「最後の一句」「羽鳥千尋」などなど。
 冒頭の本書において山崎正和は、それは鴎外が「闘う家長」を描いているからだと説きます。そして、なぜか「闘う家長」の姿は、鴎外の中で女性それも年端のいかない女性の姿で描かれる時がより魅力的だと分析します。
 なるほど「山椒大夫」もそうであるか……。

 「舞姫」に、ドイツ留学した主人公豊太郎が「奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり」と、自我の目覚めを説くシーンがありますが、作品の終盤ではその自我が「こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらず」でしかなかったことを、鴎外はとても入念に描いています。

 この「自我の不在」こそが、実は生涯の鴎外の課題であったと説いたのが本書の大きなテーマです。
 そして、そんな「自我」のない状態で、人はどうして生きていけるのかについての鴎外の方法論を、一言で解明したのが「闘う家長」という概念でした。
 とても見事な展開です。

 そもそも鴎外の「闘う家長」には、人間の無力感を描くイメージがあります。
 それは「最後の一句」「山椒大夫」「高瀬舟」などの作品中の「家長」象だけでなく、例えば鴎外が樋口一葉に示した強いシンパシーがこれではなかったかと説く筆者の直感には、思わず唸ってしまう鋭いものがあります。

 さて、上記に私は、3つの鴎外が嫌だなという理由を(私の勝手な理由を)挙げました。
 しかし現代に至ってなお、個人が、国家や世界の中で生きていく時に終生求めねばならないアイデンティティを、自らの人生の蹉跌と共に語ったのが鴎外の作品であるならば、それを描く筆者は、やはり我々の先達というに足る、偉大な文学者でありましょう。


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Last updated  2019.10.22 16:54:54
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