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カテゴリ:平成期・平成期作家
『アサッテの人』諏訪哲史(講談社文庫) 言葉にこだわった小説ですね。 しかし、まー、仮にも小説を書こうとする人なら、言葉にこだわらない人は、いませんよね。 小説を書きながら言葉にこだわらないという事は、例えば、音楽をしながら自分の出す音(声)の美しさにはこだわらないという事であります。 先日テレビを見ていたら、往年のフォークシンガーであった小室等氏が、昔のフォークシンガーは、声なんかきれいでなくていいと考えていたと自嘲とユーモアを交えておっしゃっていましたが、まー、それはとりあえず例外ですね。 絵画で言えば、それは自分の描く色の美しさにこだわるということで、普通は当然であります。 昔から、それがテーマの小説も少なからずあると思いますが、とりあえず私が今すぐに思い浮かべるのは、中島敦の「文字禍」でありましょうか。漢字は睨んでいるとばらばらにほぐれていくという小説で、いわゆるゲシュタルト崩壊を書いた作品ですね。 そういえば、漱石の「門」にも、宗助とお米がそんな会話をしているシーンがありました。(宗助は、今のいい方だと周囲の人間関係ストレスでかなりまいっている人ですね。) さて、本書はそんな言葉にこだわった話を、吃音を梃子に進めていきます。 ちょっとネットで調べてみたのですが、この作家も吃音をお持ちであったようですね。 そういった体験のせいでしょうか、実にはっとする指摘があったりします。 私が言われてみてなるほどと思ったのは、「たちつてと」は、「ち」と「つ」だけが異質であるという指摘です。 まー、お前がぼんやり者だからそんなにことも気づかなかったのだと言われるとその通りではありましょうが、言われてみればローマ字で書けば一目瞭然ですが、「ち」と「つ」は、タ行の中で「一族の中の変わり者」的な発音であります。 本書は、さほど長くない小説ですが、そのほとんどがそういった言葉の不思議、言葉の魔力について書かれています。 上記に私は中島敦のゲシュタルト崩壊の小説について触れましたが、本小説では、言葉の要素である表記(文字)・発音・意味のうち、特に発音と意味の微妙な関係に注目しています。 そもそも言葉のそんな要素の関係は、考えてみれば実に微妙なバランスの上に成立している関係で、そのうちのどれかが少しずれたりするだけで、全体の調和がドミノ倒し的に壊れてしまうものであります。 その少しの調和崩しについてを、本書はいくつかのエピソードで追っていきます。 まず冒頭に出てくるのは意味を持たない発声ですが、それは遡っていくと、我々にとって「意味」とは何かという事であり、それはまた昔からの小説の大きなテーマであります。 例えば、埴谷雄高が『死霊』で書いていた自分が自分であることの不愉快(「自同律の不快」)などは、我々にとって「意味」とは何かを問うかなり本格的なテーマですね。 本書でいうとそれは、吃音体験から来る不自由さから現実への違和感へ進み、さらにそもそも「意味」とは何なのか、そして意味が我々にもたらしている束縛へとぐいぐいと深まっていきます。 一つのエピソードとして、誰も見ていない(と本人は思っている)エレベーターの中でいきなり逆立ちをしたりコサックダンスを踊ったりする「チューリップ男」の話が書かれていますが、そこで筆者はこのように書いています。 「チューリップ男」はものの見事に逸脱し、姿をくらます。彼は真剣で、その目はまるで敵を前にした戦士のようだ。彼を嗤う者は、その前に自分の、常識に溺れきった凡庸さを嗤え。彼はひとり身で、その戦いは常に孤独である。だがそれゆえに、彼の物腰には、目に見えないある種の高貴さがうかがえるのである。けだし「チューリップ男」はこの場合、より的確に「アサッテ男」と呼び直されるべきかもしれない。 「アサッテの人」とは、そんな話であります。 しかし、言葉へのこだわりは意味への疑問につながってはいきますが、それは同時に、言葉の可能性に対する魅力にもつながっています。そこの描き方が本書では、いわば一番小説らしい部分で、さわやかに明晰に、そしてとてもユーモラスに描かれています。 だから、一見辛気臭そうな話でありながら、我々は本書をとても風通しよく読むことができます。 ただ、やはり言葉にこだわり意味にこだわり続ける事は、その先には必ずと言ってよい理性との正面からの向き合いが要求され、そうなるとこれはまた、なかなか手強い話になっていくはずです。 しかし本書は、そこへの踏み込みは少し避けたように思います。 そんな、独創性のある舞台をまず作り終えた感じの、いかにも新人賞である「芥川賞」にふさわしい作品です。 ただ、今後ここから作者が深めていくテーマはなかなか困難なものであろうと、わたくしは他人事ながら少し思うのでありました。
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Last updated
2019.12.26 12:27:03
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