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2020.01.18
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カテゴリ:昭和~・評論家
  『山椒魚の忍耐―井伏鱒二の文学』勝又浩(水声社)

 さて私は、井伏鱒二の小説とつげ義春の漫画はどちらを先に読んだのだろうと、ふと考えましたら、やはり、まー、つげ漫画が先だったかなと思います。

 「ガロ」とか「CОМ」といった漫画雑誌を、私は小学校の高学年の時に友達から見せてもらった記憶があります。つげ義春の中期、「ねじ式」前後の哀愁溢れる作品群がその中にありました。それは、なんだか得体の知れない、しかし魅力のある作品群でした。

 そしてその後、私は井伏鱒二の初期短編集を読んだのだと思います。
 とてもよく似た、そしてやはり得体のしれない、不思議な魅力にあふれた作品群でした。
 しかし、井伏小説を読んだ時、私は、つげ漫画への井伏小説のすごい影響関係について、あまり気にしなかったのですかね。

 そういえばあの頃、例えば横山光輝の「伊賀の影丸」の、これも初めの方のお話には、もろに山田風太郎の「忍法帳」シリーズの影響がみられましたが、愚か者の私は、へー、なぜかよく似た話だなー、おもしろいなー、という程度しか考えていませんでした。(情けない。)

 というわけで、まず井伏小説、特に初期の名作群を、私はとても哀愁溢れると思いましたが、これは本当に魅力的でありながら、なぜこんなに魅力的なのかを正面から分析しようと思うと、途端にわかりにくくなるような気がしました。
 ただそれは、私だけじゃなく、やはりいろんな人が感じていたことなんだという事を、この度本書を読んで知りました。それについて、こんな風に書いてあります。

​ 安岡章太郎は若年のころ『鯉』に感動したが、「これを何と言うべきか、いまだに私はよく知らない」と書いているが、まことに井伏小説の感動はいつもこんな形で存在している。それについて何か言えば言うほどそれは遠退いてしまい、あとにはウソっぽいことばばかりがのこってしまうようなのだ。​

 とあって、なるほど理解できないことが井伏作品の魅力なのかとは思いました。
 しかし実際には、やはり少なくない文芸評論家が井伏作品について批評をしていて、本書にはそんな解釈の言葉がいろいろ書かれています。
 ちょっとそれを、私が勝手に継ぎはぎして書いてみますとこんな感じになります。

 世情に苛められてきた生を否定も肯定もせず、重いものは肝心なところを関節外しのようにズラしながら、屈託と幽閉のウカツな人生を、普段着で、悲しみ我慢しやつれながら描き続けた。

 下手なパロディーの文になりましたが、でも使われている言葉は(「否定も肯定もせず」とか「関節外し」とか「屈託」「悲しみ」「我慢」「やつれ」など)、間違いなく井伏作品解釈のキーワードであります。

 さてそんな井伏鱒二作品についての評論です。
 様々な作品についての批評が書かれていますが、私が本書で一番面白かった箇所は、冒頭第一章に書かれた名作『山椒魚』の改稿問題のところでした。

 それは井伏の最晩年に刊行された『井伏鱒二自選全集』(わたくしよくわからないのですが、「自選」の「全集」ってどういう意味でしょう。その説明もきっとどこかにあるのでしょうが)第一巻に収められた『山椒魚』の結末が、作者によって大きく削除され、その結果『山椒魚』は身もふたもない索漠たる小説になってしまったという問題であります。

 この問題については、かつて私も本ブログで触れたことがありましたが、今回本書を読んで新たに知ったことがありました。それは、実はこの改稿は初めてのものじゃなかったという事であります。

 そもそも井伏鱒二は、過去の作品が新たに収録製本される度に、何らかの改稿を行うタイプの作家だったんですね。
 それは、句読点や送り仮名などの細かい改変から始まって、「?」記号を「!」に変えたり(この改稿も文脈的な影響はかなり大きいですよねぇ)、たとえ「定本」が出ても次の本でまた改めてしまうということが何度もあったそうです。
 これって、作家の「癖」ということでしょうかね。

 さて、中心話題の『山椒魚』結末の改稿についてですが、実はこれとほぼ同じ内容となる改稿を、井伏は昭和15年学童向けの雑誌「セウガク二年生」に、小学生バージョン『山椒魚』としてすでに行っていたのでした。
 その結末部は、このようになっています。

​ それはおもしろくないけんくわでした。山椒魚と蛙はどちらもまけぬきで、それからのち二年も三年もじつとしてゐたといふことです。もうこのごろでは、蛙はかちかちのひもののやうになり、山椒魚もくちた木のやうになつてゐることでせう。​

 ……うーん、これはなかなか強烈なエンディングではないですか。
 現在我々が読むリリカルな『山椒魚』とまるで違います。というより、こんなエンディングの「童話」を、小学二年生に読ませていいのかという感じがするんですがー。

 本評論の筆者は、その2回の改稿の原因を、一度目は戦争の現実のせい、二度目は核ラッシュのせいとし、井伏の時代への「絶望」があった、「和解的な結末にすんなりとは乗れない、楽観的な見通しなど無責任だという気分があった」としています。

 ……うーん、なかなか説得力がありますよねえ。
 というような評論でした。
 実はわたくしは、井伏文学については有名どころの作品を一応抑えたという程度しか読んでいなくて、井伏文学全体像についてはほとんど理解できていません。
 この度本書を読んで、改めて魅力的な井伏小説の原典にしっかり当たってみたいと、思うのでありました。


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Last updated  2020.01.18 18:33:10
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