|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半男性
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年男性
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期作家
カテゴリ:昭和~・評論家
『男であることの困難』小谷野敦(新曜社) 本書のサブタイトルに「恋愛・日本・ジェンダー」とあります。 それが示す如く、少し盛り込みすぎた雑駁さの感じられる本ですが、10編の評論文が3つの小題でまとめられて、こうなっています。 第一部 日本近代文学のなかの男と女 第二部 恋愛と「日本文化論」 第三部 日本人であること、男であること 私としては、下記に触れますが、やはり第一部が面白かったです。第二部は少し難しかったです。社会学的な引用などが多く、その方面に無知な私には歯が立たなかったというのが正直なところです。 筆者の作品を読むたびにいつも思う「博識さと正直さ」の内の、「博識さ」のいかんなく発揮された部分だと思います。 そして、「正直さ」の感想を大いに持つのが第三部で、これは総タイトルからもうかがえる(かつて『もてない男』という新書も書いた筆者にふさわしい)「私怨」(この語は筆者の「あとがき」にも出てきます)から発した文章めいたものまで収録されていて(「童貞の哀しみがきさまらに分かってたまるか!」という小題まであります)、結局この「正直さ」でもあり「下品さ」でもある筆者のいわゆる「芸風」が、やはり面白く魅力的であることを感じさせるパートです。 という事で、すごくざっくりと第二部第三部をまとめてしまったのですが、実は私が本書で一番興味深かったのは、第一部の最初の評論「夏目漱石におけるファミリー・ロマンス」であります。 漱石の『こころ』を中心に論じた文章ですが、冒頭に引用文があります。『こころ』の中では比較的有名な部分ですが、始め別に何という事もなく読んでいて、そして後の展開を追っていくと、ここの引用部が実にスリリングに問題提起をし、そして筆者がそれをとても興味深く分析していることが分かっていきます。私は開巻早々、うーんと唸ってしまいました。 ちょっと長いですが、本書と同じ分量で抜き出してみます。筆者は、この中の二か所の「不自然さ」=「変さ」に触れていきますが、どこかわかりますか。 (すみません。ここから先は、ある程度小説『こころ』の全容を知っている人で、この引用はあの辺りだなとお分かりの方という前提で進めます。細かな説明は、私の力ではしきれなく感じますので。すみません。) 果して御嬢さんが私よりもKに心を傾けてゐるならば、此恋は口へ云ひ出す価値のないものと私は決心してゐたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどと云ふのとは少し訳が違ひます。此方でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より余つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯うか落ち付くものだ位の哲理では、承知する事が出来ない位私は熟してゐました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の実際家だつたのです。(「先生と遺書」三四) ……という引用部ですが、どの辺が「変」か、分かりますか。 まず一つ挙がっているのは、「高尚な愛の理論家」の表現です。 「高尚な愛」って、何? 「愛」に「高尚」なものがあるとすれば、普通考えるのは「無償の愛」でしょう。 実際『こころ』の別の箇所では、「先生」は「御嬢さん」のことを「私は其人に対して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。」と述べています。 でもこれって、おかしくないですか。 引用部の前半に書かれてあるのは、相手に愛されていないなら一緒になんかなりたくないという「先生」の恋愛観であります。もろに矛盾しているのであります。 (でも好意的に読めば、分からないでもないですよね。ここで「先生」が「高尚な」という表現で言おうとしているのは「相思相愛」ということで、実はそれについても筆者は、その不可能性について触れています。) 二つ目に筆者が取り上げたのは、終盤近くの「私は熟してゐました」です。 相手が愛してくれないならそんな相手はいらないという「先生」の愛の心理は、はたして「熟して」いますかね。 こういう精神状態は極めて冷静なものであり、「熟してゐる」の正反対の「醒めている」という言葉がふさわしい恋愛心理ではありませんか。 と、二つの「変」を挙げた後、筆者はこの「熟して」という言葉を梃子にして、本当に「熟して」いたのがKだと説明していきます。ここの説明部分が、とてもうまい。 またちょっと引用してみます。 これに対してKは、本当に熟している。彼がお嬢さんへの恋を「先生」に告白する場面の描写で、「先生」はこれを「切ない恋」と呼んでいる。この「切ない」という叙情的な形容詞は、「先生」の遺書の叙述の流れをほとんど寸断するほどの異質性を持っている。「先生」はここに至るまでに度々お嬢さんへの思いを書き連ねてきているのだが、われわれはどこにも、「切ない」と呼ばれうるような「思い」を発見できないからだ。 ……うーん、上手に書いていますねー。 この説明からも、「先生」のお嬢さんへの恋心が、決して「熟して」なんかいないことがわかります。 それにそういえば、「先生」は、Kが下宿に来る前からすでにお嬢さんに対して恋心を抱いていながら、「奥さん」「御嬢さん」は「策略家」ではないか、自分は騙されまいぞと思い続けていたんですね。どこが「熟して」いるのでしょう。 と、まずこのような分析がされています。そして、この分析がどこに繋がっているかというと、この先にあるのは「御嬢さん」像の洗い直しであります。 ここもまた、とってもスリリングで面白いんですが、えー、すみません、次回に続きます。
よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.03.18 11:02:36
コメント(0) | コメントを書く
[昭和~・評論家] カテゴリの最新記事
|
|