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2020.05.26
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カテゴリ:昭和期・三十年代
  『破れた繭・夜と陽炎……耳の物語1・2』開高健(新潮文庫)

 この度、岩波文庫に初めて入った開高健の小説がこれだという事を知人から聞き、そういえばむかーし新潮文庫で買ったのがあったはずと書棚をごそごそすると、やはり出てきました。

 以前、本ブログでもよく似たことを書いたような気もしますが、私が文学青年に目覚めた頃(「目覚めた」というほどのものは何もないのですが)、純文学の日本人作家の「ヒーロー」は多分、大江健三郎を筆頭として、三島由紀夫、倉橋由美子そして開高健などの作家であったと思います。

 しかし思い出してみるに、この4人の作家の中で、私が一番読んでいなかったのは、開高健でした。多分長編2冊、短編集2冊くらいじゃなかったかなと思います。
 なぜだったんでしょうかね、我がことながら。

 あの頃のことをあれこれ思い出しながら、今考えますに、少し身も蓋もないいい方になりますが、やはり読んでみようと思うだけの魅力を感じなかった、ということかな、と。

 大人になってからの読書でも、例えば大江健三郎の小説は、間欠泉のように時に読みたく思い、そして実際に手に取ります。一方開高の小説は(早く亡くなった上に全体数として小説作品が少ないこともあって)、手に取るところまで行きません。
 結局、開高小説は、わたくしにとって少々巡り合わせが悪い、という事でしょうかね。(実際には、開高小説だけでなく、なんとなく御縁の薄い作家は山のようにいますから。)

 という程度の開高健理解しかない私ですが、とにかく冒頭の理由(これが岩波文庫に初めて入った開高小説という理由)で、この度、読んでみました。

 前後編2冊合わせて450ページほどの文庫本ですが、けっこう読むのに時間はかかりました。そして読み終えて、二つのことを考えました。

 まず一つ目です。
 あとがきに「人間五十になると誰でも自伝を書きたくなる」とあるように、筆者らしい主人公の半生を辿った私小説的作品となっています。
 筆者は1930年生まれですので、本書の比較的始めの方に、1945年の8月15日の描写があります。
 別にここだけではないのですが、その日の描き方が抜群に上手です。

 まずその日の午前中の、とても静かな夏の日の様子を語った後、様々なイメージの連想から、あろうことか描写はインキン田虫の話になっていきます。
 その前後の内容が敗戦の日の話だと思うからかもしれませんが、その描き方に私は異様なリアリティを刺激されました。
 そこの一部を少し抜き出してみます。その「痒み」の説明が始まった部分です。

​ そうするとカサカサの古皮の下から、ういういしい薔薇色の柔らかい皮があらわれてくる。これは痛いたしいほど新鮮で艶っぽく、そしてみずみずしいが、痒さでうずうずしている。これを爪でやりたいままにひッ掻かないで、全身がふるえそうになるのをこらえ、こらえにこらえ、ゆるゆるとドラム缶のお湯のなかに体を浸していくと、湯がその部分にしみこんだ瞬間、全身を異様な量と質の快感が突進し、よろけそうになる。あまりのことに失神しそうになる。ざわざわと寒くなり、視野が狭くなり、蒼暗くなり、のけぞりそうになるのだ。例の悪い手の歓びはやめられそうにないけれど、深刻、痛烈、徹底的ということではとてもくらべものにならない。​

 そして、この描写のすぐ後に、再び8月15日についての記述が続いていきます。
 ……うーん、こういう技巧(「技巧」というものなのかどうか、よくわからないのですが)って、どう考えればいいのでしょうかね。

 わたくし思うのですが、まずこの文章がいわゆる「彫心鏤骨」のものであることは言を俟たないと思います。
 まず天才的なものがあって、その上に、想像を絶するような努力(これもはたして「努力」と呼ぶべきものなのか、それも迷います)が加わって描かれたものでしょう。
 読んでいて、確かに惚れ惚れとしてしまうような、天才的な筆者の文章力であります。

 しかし私はここでふと考え込んでしまいました。
 私が過去に、同様に天才的な文章だなあと思いながら読んだ小説に、上記にも少し名前を出しました三島由紀夫の『金閣寺』がありますが、その文章を開高文章と並べ思い浮かべた時、明らかに違っていると思ったことが一つ、いえ、二つありました。

 一つ目は、これは、誰にでもすぐわかるような、開高文章の諧謔性への志向です。
 上記に挙げた引用文の前後にも説明しましたが、敗戦記念日とインキン田虫の描写を無理やりぶつけてしまう事で、そこにシニカルな滑稽性が生まれるのは明らかです。

 それに加え、そもそもの描写の文体が三島と開高ではかなり異なります。
 三島文体は、和語と漢語、日常的な言葉使いと公文書めいた用語の存在空間が、きっちりと描き分けてあるのに対して、開高文体には両者の意識的な混乱、つまり日常語の中に突然挟み込まれる漢語的表現が、実に印象深くユーモラスな効果を発揮しているという事です。

 わたくし、思いますに、これはやはり関西人文体の表現ではないか、と。
 それも、標準語に関西弁をアウフヘーベンした(逆かもしれません)、究極に近い関西人文体表現型ではないか、と。

 おそらくは西鶴あたりから始まった関西人文体が、宇野浩二や武田麟太郎、織田作之助、さらに開高の後には野坂昭如や町田康、川上未映子あたりにまで連綿と流れている中で、客観性と関西人的主観性を同時に表現しえた、最強の関西人文体ではないかと感じるものであります。

 しかし、ここでさらに私は考え込んでしまうんですね。
 いえ、それは所詮、さほど重大な発見ではないのですが、……えー、それは次回に説明させていただきます。
 続きます。すみません。


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Last updated  2020.05.26 17:46:30
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