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カテゴリ:平成期・平成期作家
『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子(河出文庫) 正面から老人問題を捉えた小説であります。芥川賞を受賞しました。その時筆者は63歳でありました。 というあたりを事前の予備知識として本書を読みました。 読み終わって、ふーむ、分かるような、というか、納得できるような、よくできないような気がしました。いえ、決して難しい話ではなく、作品はコミカルに軽やかな展開で進んでいくのですがー。 何となくよく納得できないと感じたあたりを、以下に少しずつ考えてみたいと思います。 冒頭に私は「正面から老人問題を捉えた」と書きましたが、「老人文学」というのは現在、どの程度成立・成熟しているのでありましょうか。 5年ほど前に、本ブログで黒井千次の小説を取り上げた時に、私は「今老人文学は『揺籃期』にある」ということを書きましたが、あれから老人文学は、進歩あるいは成熟したのでしょうか。よくわかりません。 そもそも、「青春文学」という言葉があるほどに「老人文学」というのは、現在成り立っているものなんでしょうかね。 例えば、日本は高齢化と言われ、困ったものだ、このままにはしておけない、と漠然と思われているのは、まー、はっきり言うとお金の話ですよね。年寄りが長生きをして増えていくことで、医療費が国の財政を逼迫させるという。公的年金の問題も、それに加わっていますかね。 しかしまー、そんな公の話は(もちろん大切ではありますが)、取りあえず今回はお上に任せておいて、個人としての「老人問題」というものを考えてみようと思います。 年老いて年老いて、そしてさらに年老いた時の、不安の原因は何なのか、ですね。 それは、孤独、肉体の不如意、そして死の恐怖、あたりではないでしょうか。 わたくし、この3つをじーとにらんでみましたが、実際最も根源にある不安は、取りあえず「死の恐怖」かな、と。 でも、ここばかりに絡めとられますと、多分にっちもさっちも行かなくなる、と。 昔から言いますわね、太陽と死はじっと見つめてはいけない、と。(死を見つめる「分野」は、多分宗教関係なんではないでしょうかね。) という風に「死」をペンディングしてしまいますと、「肉体の不如意」もさほど問題にならなくなってきませんか。だってその先のボスである「死」を棚上げしてしまったのですから。(いえ、実際はこのテーマはそう簡単にペンディングできるものではないことは、分かっておりますがー。) ということで、残るのは「孤独」だけだ、と。 そして多分、本書のテーマもそのようになっています。 しかし、「老い」と「孤独」の関係というのは、どういったものでありましょうか。本文にこんな表現があります。 いつのまにか、干し柿とバスタオルの間からこぼれていた弱い光が消え、あたりは淡い暮色に包まれ始めた。この時分になると桃子さんはいつもの見慣れた、それでいて手ごわい寂しさに襲われる。 またこんな風にも書いてあります。 ところが、いけない。飼いならし自在に操れるはずの孤独が暴れる。いったい昨日とどう状況が変化したというのか、と桃子さんは自問する。即座に、何にもどごもかわってねのす、どごもかごもまったぐと言っていいほど同じなのす、と返ってくる。それなのに心というやつはどうなっているのか、風向きがすっかり変わってしまって桃子さんはしおたれる。いったい何をきっかけにそうなるのか、だいたいコドクというが正体は何なのか、はっきりこれこれの理由でこういう感情が湧き出てきてなどと説明がつかない。 この小説はそんな作品なんですね。(さらには、孤独と自由の問題が係わってきます。) 二つ目の引用に、ちらちらと東北弁があらわれていますが、そんな方言の多用が、抽象的な思念に絡みついて独特のイメージを紡ぎ出します。 (これについては、わたくしは関西人で、あまりよくわからないのですが、読んでいるだけで宮沢賢治と井上ひさしが表現に重なって現れ、そこにとても分厚い構造のイメージを形作るようで、これはいわゆる「先達」の助けですかね。) この理屈っぽいところが、本作の目玉の部分なのでしょうが、しかし、そんな抽象を生み出すもととなった主人公の具体的な人生や人間関係に触れた部分が、なんと言いますか、そのとたんに瘦せ細った表現になっています。 これは私の読み損ないでしょうか、主人公の語る過去、そしてそこでの何人かの人物との交流などの描かれ方が、本作は弱くはないでしょうか。 展開に無理がある、とは言わないまでも、描かれ方があまりに薄味で、例えば、故郷を棄てた場面は「東京オリンピックのファンファーレ」としか書かれてなく、娘との関係は「いつごろからか疎遠」で、最愛の夫の死ですら「一日寝込むでもなく心筋梗塞であっけなくこの世を去」るという描写です。 こういうあたりはもう少し踏ん張るべきではなかったのでしょうか。 もう少し書き込んでほしいと感じたのが、実は冒頭に書いた「納得」云々という意味で、そこに私は、戸惑いと共に、少々残念さを覚えました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.03.06 11:15:31
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