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カテゴリ:昭和期・中間小説
『復活の日』小松左京(角川文庫) 時節柄ということもあってか、友人に勧められて読んでみました。 時節柄ということで言えば、カミュの『ペスト』とかのちょっとしたブームと同じく、本書もまた最近多く読まれているということです。(本書も伝染病の話ですね。) 小松左京といえば、やはり『日本沈没』ですかね。まー、いわゆるSF小説にあまり縁のない読書をしていた私にとっては。 でもその他にも何冊か読みましたよ。ほとんど覚えていませんが、例えば『日本アパッチ族』とか。(この本は何となく、いい印象が残っています。) で、今回も読みながら、いえ、本当は目次を見た時から思い出したんですね。 この作家は、カタストロフそのものを書くのが好きなんだということを。 ストーリーとしては、全体の3/4くらいの分量を使って人類を滅ぼしているんですね(もちろん一部は生き残るという設定ですが)。 つまり、筆者の一番読ませたいところは、虚構としての人類滅亡のシナリオをいかにリアリティをもって描くか、ということなんでしょう。これは思い出せば、私が読んだと記憶する上記の2作品も全く同じだったな、と。 ただ本作品は、そこから復活せねばなりません。だって、『復活の日』ですから。(詳しくは書きませんが、この私の書きぶりは少しシニカルです。) それが、第2部の内容です。 それが、まー、内容なんですがー、これが、なかなかに「問題的」であります。 上記に全体の分量バランスを書きましたが、もう少し具体的に書きますと、全体約440ページ中、約350ページを使って人類を滅ぼし、残り90ページで「復活」させるって、……これ、バランス的にどうなんでしょう。 「ネタばれ」という言葉があるそうですからあまり具体的には書きませんが、はっきり言って、筆者も困ったのではないでしょうかね。 何を? 第2部に書くことがないことを、です。 そんな、ちょっと失礼ながら「滑稽感」が第2部には、あります。 あるいは、一般論的に言うと、後半のストーリーの失速、ということでしょうか。 ストーリーが後半になって失速する小説って、たまにありますものね。 さて、展開的なことについて言えば、そんな感想を持ちました。 ところで、読み終えてみて、何か気になることがあるんですね。 これは何なのだろうかと考えたのですが。……。 例えばこの小説の語り口には、かなり特徴的なものがあります。 しかしこれは、筆者のオリジナリティというよりは、推理小説や私がよく知らないSF小説に、広くみられる語り口なのでしょうか。 もったいぶっているという感じがなきにしもあらずの「ため」。 詠嘆的な口調と、裏腹なのか同種なのか、ペダンティックな単語の出し入れ。 高みから語る社会批判や文明批判。……。 このようにネガティブに列挙すると、これらはいわゆる「大衆小説」的なものの特徴のように思います。(ふっと思いついたのですが、三島由紀夫が、多分自ら「大衆小説」と割り切って書いた小説の多くに、これらの特徴があるようです。) 要するに、筆者が弁士的に顔を出しすぎるんですね。 ただ、本書のこんな特徴は、一体どこから来るのだろうと思ってさらに考えますと、第1部の最後、人類滅亡後(寸前)の、ある大学教授の講義に行きつきます。 どうなんでしょうか。ここのところ、小松左京はかなり気合を入れて書いている気がするんですがね。(ここで気合を入れすぎたから、第2部が失速したんじゃないかと思ってしまうほどです。) で、ここに何が書いてあるかというと、人類に対する科学者と哲学者の責任、ということであります。たとえば、講義終盤のこんな表現。 すべてが……短期間に一挙に破壊させられてしまった現在……こんなことをいって何になるか……しかし――私はやはり、残念であります。心から……残念でなりません。知識人は……なかんずく哲学者は……自然科学の提示する宇宙と人間の姿を理解し得る立場にあったはずだ。彼らはそれの、人間にとって意味することを、大衆に……というのは全人類に翻訳し、つたえることができたはずだ。その認識をもって全世界に、現代を綜合的に超越せしめることが、できていれば……。 いかがですか。こんな調子の語りが、第1部の最後に16ページにわたって書かれてあります。 ひょっとしたら、これって本当に、筆者の本音なんじゃないでしょうか。 それともう一つ、この「本音」と同調しているかのような、本書の主要な登場人物の際立った特徴があります。 それは、高い倫理性、です。 でも、どうなんでしょう、よくわからないのですが、この「倫理性」も、「大衆小説」ゆえのものなのでありましょうか。(倫理性と文学性の親和は、特に大衆小説に強いです。) ただこの2つの物語の特徴を重ね合わせると、上記に私が指摘したネガティブな本書の語り口は、一気にこんな言い方に変えることもできます。 「啓蒙性」 ……と、言うわけで、私はそんなに悪くない読後感で本書を読み終えました。 ただ、さらに引っ掛かるところが、ないわけでもありません。 つまり、この「啓蒙性」と「倫理性」が一体どこから生まれたのか、ということです。 実は、巻末の「初版あとがき」で、筆者自身がこんなことを書いています。 私が人類に対して絶望していたり、未来に対してペシミスティックであると思わないでいただきたい。逆に私は、人類全体の理性に対して、――特に二十世紀後半の理性に対して、はなはだ楽観的な見解をもっている(それはおそらく現代作家の誰にも共通のことだと思う)。 なるほど、ここからですか。 しかし悲しいかな、この一文に、「隔世の感」という言葉を覚えてしまうのは、残念ながら、誠に残念ながら、私一人ではきっとないでしょう。……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.06.05 17:42:28
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