|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年代
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~平成・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~昭和・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~平成・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期の作家
カテゴリ:昭和期・歴史小説
『海も暮れきる』吉村昭(講談社文庫) 尾崎放哉といえば、種田山頭火と並んで自由律俳句界の二大スターでありますね。 有名な句がいくつかあります。 わたくし恥ずかしながら、ちょっとだけ俳句が趣味であります。5・7・5の定型句を主にしますが、でも、なんとなく放哉の自由律も、いいなーと思います。 しかし時たま、こんなのどこがいいんだという気もします。 例えば、本書にも出てきますが、こんな句。 火の気のない火鉢を寝床から見て居る とか、 死にもしないで風邪ひいてゐる ……どうですか。こんなの、どうよ、という気がしません? なんか、集団催眠術にかかっているんじゃないのか、という感じ、ありませんか? でも一方で、有名なこんな句なんかは、やっぱりいいような気がしますね。 咳をしても一人 素人ながらわたくし考えるのですが、俳句というのはつまるところ一つの小宇宙ではないかと。 芭蕉の有名な「荒海や佐渡に横たふ天の川」とか、確か丸谷才一がほめていた、久保田万太郎の「湯豆腐や命の果ての薄明かり」なんかには、やはり間違いなく一つの小宇宙があるような気がして、そしてきっとそれは言語芸術というものの中心に近い所に位置していると思います。 「咳をしても一人」も、やはりいいですよね。この句が催眠術とは、やはり言えないでしょう。 ……と、さて、そんな尾崎放哉が主人公の小説であります。 いちおー実在の人物を主人公に書いた小説なので、こういうのは、歴史小説? 伝記小説? どういうのでしょうか。 以前にも何度か書いたことがありますが、司馬遼太郎の書いた坂本龍馬がとても明るいのは、司馬遼太郎がそう書いたからだという説、なるほど少し前に司馬遼太郎が土方歳三を書いたのを読みましたが、土方はまるで芸術家のようでした。 ……えーっと、何が言いたいのか少しわからなくなってきたのですが、上記の司馬=龍馬と同じように考えると、本書の放哉も、筆者吉村昭の狙いに従って作られた人物である、ということですね。では、その狙いは何なのか。 そもそもなぜ放哉なのか。 それは、けっこうヒントありな気がします。 放哉がイヤな奴だからですね。 つまりまー、人格にかなり問題のある人物でありつつ、優れた芸術作品を生み出したからであります。(実はそんな文学者はとっても多いですね。ちらっと思いつくだけでも、太宰治、石川啄木、中原中也、宮沢賢治や上記の久保田万太郎などもそんな感じで、もし隣り同士の家に住んでいても絶対つき合いたくないタイプの人たちですね。) 上記に何人かの文学者を挙げましたが、彼らに比べると放哉はまだましな気がします。 放哉の人格破綻の原因が酒乱だとはっきりしているからです。 酒乱だとなぜましなのか、それも簡単、酒を飲まなければいいからです。 事実本作の終盤、放哉は結核の末期患者となり酒乱にさえなれない、つまり極端な全身衰弱のために内臓が酒を受け付けなくなってしまうからであります。 さて、上記になぜ放哉なのか、それは放哉がイヤな奴だからだと書きましたが、少し別の書き方をすれば、それは、放哉のかなり問題のある人間性と、そこから生み出された感動的な作品との間の遥かな距離をどう埋めるのかに、作品としての狙いはあるのではないかということであります。 終末期の結核患者である放哉と、晩年になるほど研ぎ澄まされて行くと言われる彼の句境の深化との連動を抉ることこそが、本作のテーマとなるはずでありましょう。 と、そう思って、私は終盤に向けてじりじりと読み進んでいきました。 そこには、大正期の、あまりまともな医療機関にかかることのできなかった結核患者の終末期の闘病ぶりが、「死は、想像していたよりもはるかに執拗で、肉体を苛めつくした上で訪れてくるものらしい。」と本書にあるように、読んでいてキリキリと痛くなってくるように描かれていました。 しかし、それが放哉の句にどう影を落としていったのか、……なるほど、そんなことはそう簡単に書けるものではないとは思いますが、なんか、少し弱い感じがしました。 というより、終盤においては、俳句の姿自体が描かれない、少なくとも印象的には描かれていないように思います。 その代わりに書かれているのが、一人の末期結核患者の姿です。 これは何なのでしょうね。 単純に考えれば、書くうちにやや作品としての構成が崩れていったのかもしれません。 しかし、構成が狂ってもぜひとも描きたいのだという気迫の籠ったこの書きぶりの理由を、わたくし、本書の筆者の「あとがき」で知りました。 構成が破綻しようが何としてもこれを書くのだという作家の執念のような意志は、なるほど、創作意欲の核に確かにあるものでありましょう。 (思い起こせば、漱石の長編小説のほとんどが、そんな読み方のできるものではありませんか。)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.30 18:54:20
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・歴史小説] カテゴリの最新記事
|
|