|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半男性
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年男性
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期作家
カテゴリ:昭和期・中間小説
『月の満ち欠け』佐藤正午(岩波文庫) 懐かしい作者の名前であります。 と、書くのは、作者に対しては失礼なのかなとも思いつつ、まー、やはりそう思って読みだしたことは否めません。 むかーし、『永遠の1/2』という小説を読んだんですね。 私が多分大学生だった頃です。 確か、村上春樹なんかもデビューして間近だった頃と思います。 村上春樹は、その後も出る本出る本読み続けました。しかし、佐藤正午は、まー、申し訳ない(ことも、本当はあまりありませんが)、『永遠の1/2』以外一冊も読まずに今日に至りました。(でも、本当はそんな作家って、佐藤正午以外にもいっぱいいるのですがー。) と、あれこれ過去を振り返っても仕方ないので、まー、それはやめて、一つのイメージだけを押さえておきます。 つまりは、ベテラン作家であります。 読み始めて、少しワクワクしましたね。 こちらが勝手にベテラン作家だという先入観で読んでいるせいもありましょうが、なかなかスリリングで、いっぱい技巧や仕掛けに満ちた序盤の展開ぶりだったからです。 さらに読み進めていって、時間軸が現在過去を行き来したりして、これはがっちりと構成された作品に違いないと思いました。 たとえ、少し偶然の出会いが多すぎたり、事故死が不自然に多すぎたりしても、まぁ、それは許容範囲だろう、と。 しかし、でも、なんだか少し、いや少しずつ、展開に私の感覚との違和感が……。 やはり、事故死が多すぎませんか。 この事故死の多いのは、明らかにストーリーの要請でありますね。 つまり「瑠璃」が死ななければ、「瑠璃」は現れない。(次の謎が生まれない。) 一方で、三角哲彦と初代瑠璃の恋愛生活は、後の展開を担うほどに説得力強く書き込まれているのでしょうかね。初代瑠璃の人格の目鼻立ちが、どうもよく見えないように感じるのは、私の読みそこないでしょうか。 さらに遡れば、冒頭に出てくる狂言回しの小山内は、作品の現在時制に於いて、何のためにわざわざ東京まで出かけたのでしょう。 そしてその時会うはずだった三角哲彦が、姿を見せなかった意味は。 読み終えて改めて考えてみると、私の感じたこれらの細かな「違和感」とは、結局のところ二つの理由にまとめることができるかな、と。 一つは、この部分。 「だけどあたしは何回死んでも生まれ変わる。アキヒコくんが、よぼよぼのおじいちゃんになっても、若い美人に生まれ変わって現れて、誘惑する」 この初代瑠璃のセリフこそが、本小説の展開の動力部分であります。 よく読めば、これだけですでに少しヘンな感じはしますが、作品はリアリティと共にこの方向に進んでいきます。そしてどこにたどり着くか。 その一端の描かれているのがこのシーンです。 (略)るりは、本当に三角さんを慕っている。慕っているって言い方では、きれいごと過ぎるかもしれない。女として彼を求めている。一緒にいると、もっとベタベタしたがってるように見える。まだ七歳の娘が、建設会社の部長さんを、本気で追いかけまわすんですよ。たぶん寝たがってると思う。ほっとけば、彼女はあの人とセックスだってしてしまう……(略) これは四代目るりの母親のセリフです。 これは、やはり、グロテスクな話でしょう。 では、なぜこうなってしまったのか。 わたくし、二つのお話を思い出しました。 一つは、氷河に落ちた恋人が河口から出てくるのを、ずっと何十年も待ち続ける恋人の話。 もう一つは確か手塚治虫のSF漫画でしたが、宇宙の果ての小さい星で、若き日の恋人の来るのをずっと待っているうちに「山姥」のようになってしまった女性の話。 本作のラストシーンは、三角哲彦と四代目るりが出会う印象的な場面なのですが、実は作中にはすでに、その後の二人のことが書かれてあります。上記の二つ目の引用部ですね。 私が思うのは、この話を歪な(グロテスクな)ものにしないためには、このラストシーンを最新の現在時制のものにして、本当に終わるべきではなかったか、と。 途中に出てくるエンディング時制より先の、上記二つ目引用のエピソードなどは描かれない方が、少なくとも読後の後味は変わってくると思います。 では、なぜ筆者はそうしなかったのでしょうか。 それが、私の考えた二つ目の理由でもあります。 それは、つまり、読者を引っ張るためでしょう。 エンタティメント小説の、なかなか難しいラインの設定だと思います。 読書途中の読者の興味を引っ張るために、どこまでやむなくそれ以外のものに目をつぶるかのぎりぎりの線引き……。 ストーリーにぐんぐん引っ張られる小説は、もちろんはらはらとスリリングに読ませてはくれますが、後で振り返ったとき、あそこはここは、やはりかなりムリ筋じゃなかったか、と思い返してしまう……。 ……いえ、これは、私が本ブログで再三自分の書いたことの言い訳に使ってきた、読者のわがままな読みの特権に、もちろん過ぎないのでありますが。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.08.12 09:42:19
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・中間小説] カテゴリの最新記事
|
|