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カテゴリ:平成期・平成期作家
『九年前の祈り』小野正嗣(講談社文庫) この筆者は、NHKを見ていると時々お顔を拝見する方ですね。 そんな番組内での発言を聞いていると、頭のよさそうな方だなーと感じますし、今回読んだ講談社文庫の筆者紹介によると、出身大学もすごいし、現在も大学の先生をなさっているんですね。 さもありなんと思ったのは、この方は最初に小説を発表してから15年くらいたって本作品で芥川賞を受賞なさったということであります。 これって、少し引っかかるところじゃありませんか。そんなことないのかな。 要するに、大学の先生をして生計を立てつつ小説を書き続けた、ということですね。さらにもう少し突っ込んで言うと、その間決して長い小説(かなり長い小説ですね)は書かなかった、ということであります。 私が何を言いたいのかといいますと、先日ヒマに任せて芥川賞関係のことが書かれてあるホームページを見ていたんですね。 すると気が付いたのは、芥川賞というのは、そのほとんどにおいて5回までの候補で決まるということでした。6回候補になった方は数名でありました。(でも数名いらっしゃいます。6回目に取った方、6回目でも取れなかった方込みで。) 考えれば一年に2回の芥川賞で、6回も候補に挙がるというのは、最短でも3年でしょう。そして、上に書いたようにその間それなりの長さの長編小説は書かないというのなら(要するに連載を持たないということですね)、かなり偏った「就業形態」になるんじゃないか、ということであります。 (さらに考えれば、6回も候補に挙げるほうも上げるほうですよねー。でも、確か小谷野敦の本に書いてあったと思いますが、芥川賞に選ばれると、少なくとも受賞作は桁一つ違って売れるそうです。全国の図書館をはじめ、芥川賞固定客がかなりありますものねー。ついでのついでに、例えば1万冊売れていた本が10万冊売れるということは、100万円から1000万円の収入増になるということですね。) ちょっとだけ別件の補足をしますと、私は主に村上春樹のことを頭に置いて書いているんですね。村上氏は、2回芥川賞候補になり、受賞することなく、三作目の作品としてそれなりの長さの『羊をめぐる冒険』を書いたら、芥川賞「卒業」となったと、えー、多分何かの本で読んだのかな。 えー、なかなか読書報告に至りませんが、私の言いたかったのは(いつものように大したことはないのですが)、ひとつ、その間食べていけるだけのいわゆる「副業」(どちらが副業なのかはわかりませんが)がなければやっていけないなということと、もう一つは、一応15年も小説を(大々的ではないかもしれませんが)発表し続けている(発表できるくらいの実力はある)という人は、もう、芥川賞なんかじゃないんじゃないか、ということであります。 (ここでまた、私は村上春樹のことを考えたのですが、村上氏は、2作目『ピンボール』まではまだジャズ喫茶を経営していたけれど、それをやめて自ら背水の陣を敷くように『羊』を書き出したということですね。うーん、この辺のあり方に、いろんな作家的「覚悟」のようなものが感じられますよねー。) さて、実は私は本書を、参加している読書会の課題図書として読んだのですが、その席上で少なくない方が、文章の手練れを指摘していました。 実は、私はそれに少しびっくりしたわけです。 少し細かいことを書きますね。 本書には4つの小説が収録されています。ただ各作品の分量のバランスが極めて悪いんですね。収録順にページ数を書いてみます。 「九年前の祈り」→114ページ 「ウミガメの夜」→38ページ 「お見舞い」→54ページ 「悪の花」→25ページ どうですか。見事にバラバラですね。これは何でしょうねえ。 たまたまといえばたまたまなんでしょうが、そのたまたまをそのままにして一冊にしたことについて、穿ったことを考えますと、自分はいわば短編集のスタイルを気にするような「新人作家」ではもうない、という読みは……、いくらなんでもバイアスかかりすぎですかね。 さて、私が読書会でびっくりした話ですが、特に最初の作品(これが芥川賞受賞作ですが)において、私は初めて読んだ時、文章の何と言いますか、「どんくささ」に少し辟易しながら読んだんですね。その印象があったものだから、私はびっくりしたわけです。 でも、確かに二作目からはそんな一種「素人」っぽい生硬さはかなり姿を消し、そして、三作目あたりからは、それなりに広がりの感じるものがありました。 ……で、まぁ、「反省」したんですね。 その「反省」のプロセスが、実は上記の報告であるわけです。 つまり、デビューから15年、芥川賞候補4回もの作家が(もはや新人かどうかはともかく)文体において「素人」のはずはないだろう、と。 では、私が感じた文体の「どんくささ」は何だったんだろうと、「反省」ついでに考えてみました。 多分、これは筆者の戦略であろう、と。 かつて、大江健三郎がデビューした時、彼の「悪文」が話題になりました。谷崎潤一郎は、よくわからないという趣旨のことまで言っていました。 冒頭で私は、この筆者のテレビ出演について少し述べましたが、そんな番組の一つで、筆者は大江健三郎の小説の解説をなさっていました。 これは私も読んでいた時から少し感じていましたが、「九年前…」に見える一見ヒステリック(グロテスク?)な比喩や言い回しには、やはり初期の大江作品からの影響が見えるのじゃないか、何より作品の背景が、大江の四国(愛媛の森)に対して小野の九州(大分の海)ではありませんか。(ここに中上健次の紀州の路地を加えていいかもしれません。) というわけで今回は、個人的に「反省」の読書でした。 反省。
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Last updated
2021.12.26 09:22:09
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