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カテゴリ:平成期・平成期作家
『送り火』高橋弘希(文春文庫) しかし、なんとも後味の悪い小説を読んでしまったことであります。 以前にも拙ブログで紹介したように思いますが、三島由紀夫が『小説とは何か』という(タイトルの通り小説の芸術性についてあれこれと綴った)随筆で、深沢七郎のデビュー作『楢山節考』を取り上げて、「読んで慄然とした」と述べ、「文句なしに傑作」といいつつ、「この世には、ただ人を底なしの不快の沼へ落し込む文学作品もあるのである」と書いていました。 まー、「底なしの不快の沼」というほどの感じではありませんが、私も今まで人並みには小説を読み続けてきましたが、本作ほど読み終えて不愉快な思いをした小説は過去になかったように思います。 ただ、「底なしの不快の沼」というほどではないと書きましたように、読み終えて少し落ち着いて考えれば、細々としたところにリアリティに難があるようにも思えました。 詳しくは書きませんが、例えば最後の「稔」の行動に至る展開について、あの暴力性の発動は、登場人物の人間関係を考えたとき、舞台の「田舎的」ではない、むしろ都会的希薄さがベースにあるべきではないか、とか。 そんな部分が読み終えてしばらく考えると、少し「しらけた」感じにはなるのですが、しかし、確かにこの不愉快な読後感は尋常ではないと思います。 その辺をちょっと考えてみますね。 例えば、主人公が最後にひどい目に会う小説というだけなら、それは過去にたくさんありますよね。いわゆるディストピア型の小説とか(『一九八四年』なんかですかね)、不条理な暴力というならカフカの『審判』とかもそうですね。 ただそう言うのとは、「不愉快さ」の質が少し違うように思います。 うまくいえませんが、オーウェルやカフカの不愉快さは、もう少し理が勝ったものの感じですね。 では、もう即物的に、暴力描写の不快さでしょうか。 それはありますよね。 優れた文章力故の緻密な暴力描写が、読者の脳裏に焼き付いてなんとも不愉快になる。 個人的には、村上春樹の『ねじまき鳥…』の皮剥ぎボリスの場面なんかはそんな感じで、あの場面がある故に、私は『ねじまき鳥…』は再読できないでいます。 そういえば、中高生のいじめの場面(本書の場面もその拡大版ではありましょうが)も、いやですね。昔読んだ川上未映子の小説に、チョークを食わせるいじめが描かれていましたが、わたくしもう、生理的に受け付けずそこでその本を読むのをやめました。 というような、場面そのものの不愉快さは確かにありましょうが、この度の小説の読後感の不愉快さは、それに加わるものが確かにあります。 わたくしなりに、じーと考えました。ポイントは3点です。 1.主人公「歩」に寄り添いつつの三人称描写であること。 2.暴力以外の、主に田舎の生活を綴った場面の静謐さと、その中心にいる「歩」。 3.「歩」の少年らしい小ずるさと傍観者的小市民性 どうでしょう。ここに挙げた3つの項目は、作者によって緻密に巧妙に描かれた、読者が主人公「歩」に感情移入をしていくための技巧だと思います。 一人称の小説より三人称の小説の方が主人公の心の中に入りやすいですし、暴力やいじめを取り上げていない場面のしっとりとした描写は、それが特に自然豊かな田舎のものである故にとても瑞々しく快いです。そしてそんな描写の中心に「歩」が位置づけられています。 加えてその主人公「歩」の小さな感情や行動のエピソードに、少年らしいと言えば少年らしい、未熟さゆえであるかもしれない「小ずるさ」「小市民性」「傍観性」が描かれています。 それを読む我々は、その人格的未熟さも含め(あるいは「故に」)、「歩」への一体感へと導かれていくように思います。 そしてラストシーン、読者は、一体化した「歩」が受ける突然の理不尽な暴力に、「歩の小ずるさ=読者自身の小ずるさ」が断罪されるように感じられ、戸惑い混乱し、いやな不快感が残ってしまうのではないでしょうか。 暴力によって断罪されているのは、実はあなた(読者)のエゴイスティックな人間性である、と。 ……どうでしょうね。 こんな風に考えた私は、なるほどやはり、こういう読後感を催させる本作品は、とにかく新しいものをもっている、と思いました。 本作は芥川賞を受賞していますが、新人賞である芥川賞に必要なものは、完成度ではなく新しさでありましょうから、いかにもふさわしいかな、と思いました。 ……と、思いましたが、しかし、ちょっと考えて、本当にそうだろうかとまた考え直しました。 そして、時々お世話になっているホームページの「芥川賞のすべて・のようなもの」(これはなかなか力作のホームページです)の「選評の概要」を読んでみましたが、賛成反対選者異口同音に語っているのが作者の優れた文章力であります。 まー、文章によって描かれた作品ですから、文章力というのは、例えば音楽で言えばどんな表情の音でも出せる力ということでしょうし、絵画で言えば、色の深みや形の見事な出し方捉え方といったものになるのでしょう。 それが極めて優れている故の受賞というのは、わからないでもありません。 ただ、確かに私は古くさい人間でありましょうが、もしも文学が人間を描くものであるならば、人間性とモラルの関係について、選者がほぼ何も述べていない(二人の選者が少しだけ書いていましたが)のは、本当にそれでいいのか、という気がします。 上記に私は、本作の読後感が極めて不愉快な理由を、作品の構造側のものとして3つ取り上げましたが、実は4つめがあって、この倫理的に理不尽な終末(このように書くと少し「怯み」ますが、やはり「倫理的正当性」ということでしょうか)をどう考えたらいいのかという問題が残っています。(残っているはずだと思います。) もしも現代文学の最先端が、本当に文学と人間性とそしてモラルの間につながりあるものを認めないというのなら、評価者はもう少しそのことについてのエクスキューズをすべきではないでしょうか。 ましてや、芥川賞と言えば、不自然なほどにこの賞だけが国民的な注目を得ていますが、選者の方々はそんな「広告塔」としての芥川賞の位置づけなんて考えていないのでしょうか。 考えていたら、もうすこし本作の「理不尽な暴力」について、文学とモラルの関係を語っていただけたろうにと思いますが。
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Last updated
2022.03.30 09:09:34
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