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2022.07.16
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  『マスク』菊池寛(文春文庫)

 本書は、サブタイトルに「スペイン風邪をめぐる小説集」とあります。
 スペイン風邪というのは、かつて私も知らなかったのですが、このコロナ禍でいろんなところで何度か聞いたこともあり、ちょっとググってみたりしました。

 私が知ったのは、文学史っぽい絡みで比較的大きな事件としては、小山内薫がこの感染症で亡くなったこと、ということは小山内薫の後追い自殺をした女優松井須磨子の死も、詰まるところこの病気のせいだということでした。

 と、それくらいのなんということもないカルイ予備知識を持って、友人に勧められて私は本書を読みました。
 随想的な文章が1つ入っていますが、基本は8つの短編小説集であります。
 しかしサブタイトルに「スペイン風邪をめぐる」とありながら、それをめぐっていそうな作品は3作だけでしょうか。さらに残り5作のうち3つのお話は、いわゆる「時代小説」であって、そこに直接的な「スペイン風邪」は出てきません。ただ、何らかの感染症あるいは病気めいたものは出てきそうであります。

 ……えー、ちょっと本筋から離れるような所から書いてみますが、この3作の時代小説と5作の現代小説を比べて、どちらができがいいかと考えてみました。
 そして私はすぐに、3つの時代小説の勝ちだろうと思いました。

 その理由のひとつは、時代小説3作の中に有名な「忠直卿行状記」が入っているからでしょうね。時代小説現代小説というジャンル以前の、菊池寛の代表作の一つであります。

 ただ、それを考えに含めても、私は時代小説の方ができがいいと思いました。
 ……ふーん、菊池寛は時代小説が得意なのか、と。
 と思って菊池寛の代表作を思い浮かべてみると、「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」「入れ札」なんかは時代劇ですが、「父帰る」とかはそうじゃありませんね。
 そんな単純なものでもない気がします。

 ただ、私はこうも思うのですが。
 いわゆる時代小説というのは、そのジャンル独特のフォルムがあって、それに則っていけばそれなりのリアリティが保証されるということであります。

 菊池寛のように、テーマ小説で、その読ませどころが登場人物の心理分析であるという作家の場合、「忠直卿行状記」のように、時代劇は登場人物に極端な性格を持たせやすくまた、その時代の物の見方がすでに形式化している(例えば武士の価値観)と言うことも、その人物の心理分析をしばしば「逆説的」に展開していくというところに持って行きやすい気がします。

 一方現代小説の場合は、まず人物や出来事についてのリアリティが求められ、そしてそれに独創的な心理分析の論理性科学性正当性などが要求されていくように思います。
 このように考えると、やはり現代小説の方が難しいのかな、と。

 ところで、上記の私の感想は、実は私が感じている文学作品全般についてのものではありません。これは菊池寛の小説についてだけのもので、そして私は、恐れながら、菊池寛にはさほど高い文学性がないと(すんません)思っているものであります。

 一つだけ私の思いを説明しますと、菊池寛の小説の主人公の中には、菊池寛がほとんどいないということであります。
 これも説明し出すとなかなかやっかいそうですが、ざっくり言いますと、フローベルが言ったという「ボヴァリー夫人は私だ」が、菊池小説にはあまり見られないのじゃないかということです。

 ただ、さらに私が思うのは、菊池自身そんなことはわかっていて、そして、自分の作品の価値基準を別の所に置いているのじゃないかということです。
 私は多分そうだと思っています。

 そしてさらに、さらにうがって私が思うのは(ほとんど妄想のようなものですが)、そのように菊池寛が考える原因は、友人芥川の存在にあったのではないか、と。

 実際、自分の近くにあれほどの天才芥川がいて、そして、そんな彼ですら「文学」に対して悪戦苦闘している姿を目の当たりに見ていたら、自らの存在理由を別の所に求めようと考えるのは、なんら恥ずかしいことでもないではありませんか。

 そして菊池寛は今も、日本文学史上にとても大きな華々しい実績を残しています。

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Last updated  2022.07.16 19:33:38
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