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カテゴリ:平成期・平成期作家
『渦――妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真寿美(文春文庫)
確か数年前に、この筆者がヴィヴァルディについて書いていた小説を読みました。詳しい内容は忘れてしまったのですが、きちーんとしっかり描いていたような印象が残っています。 で、この度は、近松半二のお話ですか。守備範囲がとても広いですねー。 近松半二という名前は、わたくしたぶん日本文学史の本で読んだような気がします。江戸時代の歌舞伎作家か何かじゃなかったかしらん。(浄瑠璃作家だと、本書を読んで知りました。) と、その程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、代表作がタイトルにもあります『妹背山婦女庭訓』、これも名前だけは知っていました、ただし名前だけ。 この度の読書で、これらのことはそれなりに詳しく知ることができたのですが、今回かなり納得したのが、歌舞伎と浄瑠璃はまるで違うということで、もちろん芸能興行形態が、一方は人間により他方は人形によるので違うのは当たり前ですが、私が特に知ったのは、歌舞伎と浄瑠璃における原作者(それぞれ「立作者」というそうですが、集団制作も多かったそうです)の芸能集団内での立ち位置の違いみたいなのでした。 文中にも「歌舞伎は所詮、役者のもんや」とありますが、なるほどまあそういうことですね。 で、近松半二は、浄瑠璃の作者であります。 それと関係してもう一つ、なるほどと改めて納得したのは、ざっくり言うと「著作権」という考え方がほぼなかった時代の創作者の人生上の困難、という事でしょうか。 著作権がほぼないのですから、これは、考えるだにきつい人生であります。 だから、(「だから」なのか「にもかかわらず」なのか、いえ、多分「だから」)芸事には無頼の人生が生まれるのでありましょう。 少し前に又吉直樹の「火花」という小説を読んだ時、私は、ああ、現代はこんなところに無頼派作家がいるのかという感想を持ちましたが、思い返してみれば、それ以前にも藤本義一という作家が「鬼の詩」という小説で、芸事に取りつかれた生き方の恐怖、狂気そして陶酔を描いていました。 その裏には、芸能や芸事に生きる者が、明日の衣食住がままならないぎりぎりの生き方と並走している状況が確かにあったのだと思います。 にもかかわらず、芸術芸能に取りつかれた表現者の陶酔は、このように描かれるととても魅力的であります。 実は本作は、それだけが書かれていると言い切ってもいいのですが、つまりどこを切り取ってもそこにつながるのですが、以下に、作品の初めの頃の、「病」が相対的にまだ「軽い」主人公の心理描写を挙げてみます。 「病」はまだ「軽い」ですが、狂気と陶酔の感じがとてもよくわかる描写です。(尾羽打ち枯らした主人公が久々に家に帰ってきた部分です。「以貫」というのは「半二」の父親。) 浄瑠璃か。 浄瑠璃な。 以貫が湯から出て、詞章をうなっている。よく聞き取れないが、なにやら気持ち良さそうに頭を揺すっている。 浄瑠璃か。浄瑠璃な。 半二はざぶりと湯をかぶりながら、道頓堀の賑わいを思い出していた。 幟がはためき、人々がさんざめき、うまそうな匂いが漂い、木戸番が声をかける。 半二が笑う。そうか、浄瑠璃な。 浄瑠璃という、その言葉を口にのぼらせただけで、心がはずみ、途端に気が急いてくるのは、どうしたわけだろう。 浄瑠璃か。 浄瑠璃なら道頓堀よな。 半二がくつくつと笑う。 あー、阿呆やな。わし、阿呆や。 大坂へ戻ってきたんなら、まずはあそこやないか。真っ先にあそこへ行かな、あかんやないか。 道頓堀や、道頓堀。 髭を剃り、髪を整え、絹が用意した新しい着物に袖を通すと、半二はそのままふいと道頓堀へと繰り出した。そうして、それきり、戻らなかった。 いかがですか。「浄瑠璃か。浄瑠璃な。」の繰り返しがとてもいいですよね。 さて、そのようにして半二が芸事=病に取りつかれていき、どんどん取りつかれていき、そして、終盤の間近、そもそもその芸事の創作とは何なのか、筆者はそこに一つの言葉を用意します。 いわく、「虚無」。 そして、一つの描写を行います。 若い時から切磋琢磨し合ってきた狂言作家の「正三」(並木昭三ですね)との会話の場面であります。 「ときたま、会うたりするんや」 正三がいう。 「だれにや」 半二がきく。 「その男にや。つまり、もうひとりのわしやな」 「んな阿呆な。なにいうてんのや」 「いや、ほんまや。こないだもな、わし、法善寺の角、ひょいと曲がっていきよる、あいつの後ろ姿をみたんや」 おい、正三、からこうてんのか、といいかけて、半二は、正三がひどく真面目な顔をしているのに気づいた。いつもの明るさが消え、どことなく影が濃くなっているようにみえる。ああ、と半二は思う。こいつも、虚に食われだしとる。 「あかんで、正三」 「なにがや」 「そいつをおっかけたらあかん」 半二がいうと、正三が、はっとしたように、目を大きく開いた。 「ようわかったな、半二。お前、なんでわかった。そうや、わし、たまにそいつをおっかけとうてたまらんよう、なるんや。おいっ、お前はなに書いとんのや、みしてみ、いうて、ひっ捕まえて、たしかめとうてたまらんようなる」 「あかん、あかん。それしたらあかん。そいつのことは、ほっとき。決して相手したらあかんで」 「そうか」 「そうや」 ここにはいわゆる「ドッペルゲンゲル」が描かれていますが、ものを作ることをとことん突き詰めていった先のうすら寒い「虚」の姿を、上手にさし出していると思います。 さて、そんな一種の精神の「地獄」に陥りながら、しかしなぜ創作者はその世界をさらにさらに追及しようとするのか。 本書が最後に触れようとするるのは、そこです。 これも引用したいところなのですが、しかしここは各自で読んでいただこうと思います。 かつて私は宮沢賢治を扱った小説を読んだ時、こういった実在の文学者を扱った小説というのは、基本的にハッピーエンドなのだな(少なくとも私のような文学好きの読者にとっては)、と思いましたが、やはり本書もそのように思います。 なぜならば、あるいは言うまでもないことかもしれませんが、21世紀の今に至って、近松半二の作った作品は、演じられ、読まれている(読まれては、あまりないかもしれません)からであります。 もって瞑すべし、ハッピーエンドでしょう。……
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Last updated
2023.07.16 18:10:40
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