|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年代
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~平成・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~昭和・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~平成・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期の作家
カテゴリ:昭和期・後半
『いずれ我が身も』色川武大(中公文庫) ひさしぶりにこの筆者のエッセイを読み直しました。 以前は、丸谷才一なんかと並んで、私はかなり熱心にこの作家のエッセイを読んでいたように思いますが、丸谷氏も同様、この筆者もすでに亡くなって久しく、そういえば最近、「ファン」として次つぎと読んでいく(繰り返して読んでいく)マイ・フェイヴァレット・エッセイストがいないような気がします。 なんか、さびしいですねえ。 で、なぜ、色川武大のエッセイなのかといえば、それはやはり第一に「凄み」でしょう。 細かな言葉の斡旋にまで、ぞくっとするような凄みがあります。例えば、こんな書き方。 横浜の街とは、十五、六の時分から、いろいろな意味で交際がある。横浜大空襲の日も、中学をサボって、長駆、横浜花月というレビュー小屋に、夜までささりこんでいた。それで命からがら逃げまどったものだ。 どうですか。この短い文章中に用いられている「ささりこんで」なんて表現は、この筆者の文以外で私は読んだことはないし、またこの筆者の表現でなければ心動かさるとは思いません。 この「凄み」は、この筆者の作品を一冊でも読んだ人ならそこからきっと少しは探ってみて発見する、この筆者自身の人生の「凄み」のせいであります。 例えば上記引用文の数行後には、こんなことがさらりと書いてあります。 横浜はばくちの天国だった。東京はさすがに首都圏だし、取締まりもきびしいので地下賭場が大げさにはびこるということはない。川崎や千葉では、客が打ち殺されて絶えるか、その逆に賭場の方が似ても焼いても喰えない客たちに突っつかれて全滅してしまうか、どちらかだ。 実にさらりと凄いことが書かれていますね。この凄さは、幾たびもその場にいて、そしてそれらをじっと目撃しつづけた作者の視線の存在の凄さであります。 そんな筆者の、総タイトルになっている「いずれ我が身も」というエッセイが、冒頭に掲げてあります。この「いずれ我が身も」に続く内容は、こうなっています。少し離れた部分二か所を引用してみます。 犯罪をおかしたりして、窮地におちいっている人間を、我が事に感じる。汗が出るほどにそうなる。これは小さい頃からで、五十の声をきく現在もなお変わらない。 犯罪が発生した記事を見ると、私はいつも、覚悟、のようなものをする。ここに自分のしたことがある。いつかはきっと捕まってしまう。だからその件についての中間報告記事を見て一喜一憂する。それは被害者に対して、世間に対して、ひどく不謹慎なことで、だから口外はしない。けれども、万一、刑事がやってきて訊問されたら、いつの場合でも、私は涙声をあげて自白してしまったかもしれない。 私はこれらの文章を読んで、少しニュアンスは違うが、その心の底辺には同じものがあるのだろうと想像させる文章をどこかで読んだ気がしました。 それは、よどみながら流れるどぶの水を見るたびに、そこにうつぶせに顔を浸けて死んでいる自分を想像するというもので、それは確か、俳優の渥美清が何度か言っていたのを書いた文章だったと思います。 こういう人生観を作り上げてしまう人生の前半生を過ごしてきた人物の書く文章というものは、いわば、そのすべてとは言わないまでも、様々なところに名言・格言が、普通にさりげなく書かれています。そしてそれはやはり「凄み」としか言えないのですが、本書にも至る所にあります。 引用し始めると切りがないのですが、二つ抜き出してみますね。 (略)私が幼い頃から馴染み親しんだ人の多くは、もうこの世に居ない。来世は信じないけれど、まんざら見知らぬ所へ行くのでもないような気がする。 それとはべつに、一生というものがこんなに短いとも思わなかった。芝居でいうと、一幕目が終わるかどうかという頃合いに、もう残り時間がすくなくなっている。 どうも無責任なようだが、近年、私は、人間はすくなくとも、三代か四代、そのくらいの長い時間をかけて造りあげるものだ、という気がしてならない。生まれてしまってから、矯正できるようなことは、たいしたことではないので、根本はもう矯正できない。だから何代もの血の貯金、運の貯金が大切なことのように思う。 どうですか。どちらも面白いですが、二つ目の文章の内容はとても独創的でおもしろいですよね。 この文章は、さらにこのようにつながっていきます。 さらにいえば、人間には、貯蓄型の人生を送る人と、消費型の人生を送る人とあって、自分の努力がそのまま報いられない一生を送っても、それが運の貯蓄となるようだ。多くの人は運を貯蓄していって、どこかで消費型の男が現われて花を咲かせる。わりにあわないけれども、我々は三代か五代後の子孫のために、こつこつ運を貯めこむことになるか。 こんな人間観の人のエッセイは、なるほど面白いはずですね。 そして、そこにさらに虚構をまぶした小説作品は……。 いうまでもないですよね。 また、久しぶりに読み直してみましょうかね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.27 20:20:58
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・後半] カテゴリの最新記事
|
|