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analog純文

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2023.09.23
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  『晩年様式集』大江健三郎(講談社)

 本書は奥付によると2013年10月に第一刷が発行されています。
 一方初出は「群像」誌で、2012年1月号から2013年8月号までの連載です。つまり、2011・3・11東日本大震災の直近、といっていい時期であります。
 実はこの連載という形式が、本作の一つの大きな仕掛けになっています。
 そして、大江氏は2023年に老衰で亡くなられますが、それまで10年を残して本書は氏の最後の小説となっています。

 この度本書を読み終えまして、わたくし、何と言いますか、いろんな意味で感想が整理しきれないでします。
 読み始めてしばらく、中盤あたりまでは、結構面白く読みながら、本書のテーマは二つだと思いました。基本的には、読み終えた今もそう思ってはいます。

 一つは、3・11以降の日本の運命。
 もう一つは、「私」の老い、でしょうか。

 こう書いてみると、やや陳腐なテーマのように見えますが、これらをまとめて象徴的に描いたシーンが、作品中に何度か繰り返される「私」が家の階段の踊り場に立ちつくして声をあげて泣くという場面ですが、こういういわばポイントとなる場面の出し入れや、そこに漂う印象深い「詩情」のようなものを描くその手さばきは、まさに大江氏の面目躍如たるもので、とても見事なものです。

 この場面は何度か出てくるのですが、少しまとめて描いている個所を抜き出してみます。「私」の娘のセリフの一部です。

​ そしていまは、自分らみなについても、国じゅうの原発が地震で爆発すれば、この都市、この国の未来の扉は閉ざされる。自分らみなの知識は死物となって、国民というか市民というか、誰もの頭が真暗になる。滅びてゆく。そのなかに人一倍何もわからなくなったアカリさんがいる、そういう行く末を連想して、パパはウーウー泣いたのじゃないか……​

 上記にも触れましたが、本書は基本的にはこのテーマを中心に展開していくのですが、その展開のさせ方が、何と言いますか、今まで以上に「大江健三郎的」であります。

 それは、はっきり言って、なんでもありの展開であります。
 なんでもありとはどういう意味か、なかなか説明しづらいのですが、いわゆる「メタ」小説的展開を晩年の作品になるほど筆者は書いてきたように思いますが、本書に至っては、今まで書いてきた自分の作品を次々と挙げてはその「内輪話」や、ウソばかり書いてきたことを、作品に何度も登場するおなじみのメンバーたち(「私」の妻、娘、妹そして「アカリ」さんたち)が述べて、「私」(作者!)に反旗を翻すという展開になっています。

 また、これもいかにも「メタ」っぽい仕掛けとして、大江小説と切っても切れない知的障害を持つ「アカリ」さんが、パパの作品は私の本当の言葉を書いていないと言ったりします。過去の作品には、他の登場人物の言動については虚構を施していても「アカリ」のセリフだけは嘘は書いていないと、これもまた作品中の「私」が書いてあったりしていたのに。

 そして畳みかけるように他の登場人物たちが、「私」のことを、「アカリ」とよく話をしないでいる、「アカリ」という人格を敬っていないなどと、中年以降の大江作品ほぼすべてに対する絶望的な種明かしのようなものをします。

 その時、とても効果的な仕掛けとして用いられているのが、冒頭でも触れました「群像」誌連載という形式であります。
 特に中盤部くらいまでこの形式を用いて、交互に「私」と家族たちの言葉を語らせていき、家族の語り部分が、次つぎに「私」の語り部分を否定していくという仕掛けになっています。(作家生活半世紀を経験した大作家であっても、こういう仕掛けをまたも新作品に施すというのは、何と言いますか、筆者はまさに根っからの小説家でありますねー。)

 私としては、そんな前半部が特に面白かったです。過去の作品や作家の人柄さえ家族たちに否定される「私」は、しかしこれまでの大江作品がそうであったように、やや被虐的なユーモアが感じられ、そんな内容すら小説にして主人公が語っていくという、何重にも張り巡らされた筆者と主人公、筆者と作品の輻輳的な関係性が読み取られ、読みごたえがありました。

 ただ、これも私の過去の読書体験に重なるのですが、どんどん読み進めていくうちに、作品が「難渋」になっていきます。
 いえ、「難渋」というのとは少し違うかなという気もします。
 これは、大江氏の他の作品にも何度か感じたことですが、書かれてある内容が難しいのではなくて、今何が書かれようとしているのかその意味がよくわからないという感覚であります。
 これは、なんとも言い難く、……いえ、やはりこれは「難渋」なのでありましょうか。

 と、そんな印象を持ちました。
 また私は、読んでいる途中からふと、室生犀星の、やはり最晩年の小説のことを思い浮かべました。
 実はかなり昔に読んだので内容はほとんど覚えていないのですが、多分室生氏の最晩年の作品で、タイトルが『われはうたえどもやぶれかぶれ』です。
 タイトルがすでに内容を見事に象徴していますが、そんな老境のやぶれかぶれさえ小説の仕掛けにするという強烈な小説家の意志、というか「業」のようなものの感じられるタイトルです。

 結果として本作は、あと10年を残して大江氏の最後の小説となりましたが、ひょっとしたら、最後の小説という思いは執筆中の大江氏にもあったのかもしれません。

 もっとも、小説家という人種は、とても一筋縄ではいかない方たちですから、そんな思いはいつでも裏返ってしまうという、本当に結果論の話ではありますが。


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Last updated  2023.09.23 18:53:21
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