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テーマ:中国&台湾(3303)
カテゴリ:中国旅行
<補足5>に続きます。
テーマは「盲流」 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 前回の広州駅での列車切符を買うくだりで、 shin689479さんからのコメント(謝謝!)にあった 盲流 mang2liu2 という言葉。 ああ、そうか と、そこで初めて当時の時代背景へ頭が飛びました。 あの状況を理解するには「盲流」の存在を説明しないと ただ「昔は怖かった」だけになっちゃうから。。 学生の時にも聞いた事がある「盲流」 あれは確か文学の先生が言っていたのか、 そして北京旅行の時にお世話になった先輩からも 説明を受けた気がする… でも当時の中日辞典には載っていなかった。 人から説明を受けただけ。 当時の私の「盲流」に対する理解は、 「盲目的に流れてくる出稼ぎ農民」 「流氓 liu2 mang2」=浮浪者、ちんぴら と意味が混同もしていて、 ハッキリ定義できていなかった。 今回、この昔話を書いている事もあるし ずっと曖昧なままだった「盲流」を分かる範囲で調べてみました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 盲流 とは、職を求めて都市に流入する大量の農村出身者の事。 文字通り、何のアテも計画もなく盲目的に都市部に流れてきた事から、そう呼ばれた。 この現象が初めて起こった80年代後半には、この流動人口は 都市生活を混乱させる厄介者と見なされた為、 蔑視の意味を含む「盲流」と呼ばれていたが、 90年代の高度成長期に入ると都市生活を支える重要な 労働力と見なされるようになり、呼称も「民工」に変わった。 「民工 min2 gong1」 とは、「農民工」から来ていると言われる。 この呼称の変化には、改革・開放による都市部の再開発が 進み、大量の廉価な労働力が必要になった事、 及び、彼らが都市住民の嫌がる所謂「3K」労働や単純労働を 引き受けてくれる為、都市生活を成り立たせる上で欠かせない 存在になりつつあった背景がある。 1995年、中国公安機関の推定では、中国全土のこうした「民工」は 8000万人/年であったとされている。 彼らを送り出した故郷の農村にとっても、仕送りや都会で学んできた 技術によって大きな経済的メリットを受けており。 例えば四川省では、広東へ出稼ぎに行った合計400万人にも上る 農民からの仕送りが、94年には年間40億元にも達した。 しかし「光」もあれば「影」もある。 仕事を見つけられず、かと言って、やっと用意した片道切符だけ 握り締めて来た故に、戻る事も出来ない者も多く居た。 「盲流」出現以前の中国農民の生涯移動距離は半径十キロ内外だったと言われる。 そうした人々にとって,故郷から数千キロの移動距離は、異国にも等しかったはず。 都会へ出てきたはいいが、 どこに行くべきか、何をするべきか、まるで分からず。 ただ、終着駅の駅頭に立ち尽くす者も多かった。 しかし生きていかねばならない・・・ 生 き る 最もシンプルな理由に基づき、彼らは露天で生活を始める。 「盲流」の最たる都市、広州では常時数万の規模で起居していたといわれる。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 旅行時には写真なんて撮る余裕は全くありませんでした。 拾い物ですが、90年代初期の広州駅の様子です。 洪水の様な「盲流」 広州駅の待合室前。群れを成す「盲流」は中国都市部の風景の一つ、と。 中は人が一杯でもう乗れないのに、 入り口にしがみついて何とか中に入ろうとする人達。 次回は、中国における「盲流」の歴史、及び そこから見える90年代初期の大量の「盲流」現象の切実な理由、 を御紹介したいと思います。 <補足6>【壱】広州-杭州 列車旅の思い出 につづく。 ←よろしくお願いします(別窓) ←こちらも是非(別窓) ←これも、いいでしょうか?(別窓) 補足、どこまでいくよ…(汗) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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