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CHINA QUEST*中国にはまったOL⇒女性社長の人生修行

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2008/06/30
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テーマ:海外生活(7774)
カテゴリ:上海留学時代


私が感じた階級(?)社会は



外地から上海に出稼ぎに来ている人達

上海人

プチブル上海人

特権上海人

アジア・アフリカ系外国人

西洋人・日本人





見えていた範囲で、大体このような区分けでした。
(韓国・シンガポール・マレーシア・香港・台湾・東欧等は交流少なく分かりません)



主に経済力で分けられていて、後は国籍や戸籍の区分かな。




外地から上海に出稼ぎに来ている人の給料は
いくらだっただろうか?

近所の食堂で働いていた女の子は
住み込みで月に150とか200元(2,200円)とか、そんな給料だったと思う。

2種類くらいの服を、交替に着ていて
食堂の二階の屋根裏に住んでいた。


日本語学校の生徒は
工場の検査をしていて、月に300元(3,300円)。


日本料理のコックをしていた若い子は、月に500元(5,500円)。


苗さんは国営企業の工場長で、月に1,000元(11,000円)。


TAXIの運転手は、友達と二人で営業する。
日替わりで運転して、
それで大体月給2,000元(22,000円)くらいだった。


当時、日系の有名企業の連絡事務所で働いていた、日本語
レベルが非常に高い従業員の給与は…人材派遣会社に支払っていた給与が
3000元(33,000円)くらいだったはず。


特権上海人の給与は分からない。
殆ど接触がなかったから。



アジア(ラオス多かった)・アフリカ人系は、給与は分からなかったけど
来ている留学生は殆ど、国費留学生でした。

裏を返せば、自費では来られない、という事。



西洋人・日本人の給与は、言わずもがな。(韓国人は分かりません)

当時進出していたのは殆ど大企業だったから、
日本から派遣されている駐在員の給与も待遇も、とても良かった。

会社が車をあてがうのは普通だったし、
バスに乗ってるって言うと「勇気あるね~!」とからかわれる。

しかし。

「バスに乗ってる」と、からかわれた留学生でさえ
中国人から見れば大金持ち。

プチブル(プチブルジョア)気分だった。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




あの頃(今も?)外国人は特別な存在。

上海という外国人に理解があって、
外国人と交流するメリットを分かっている土地柄もあるのでしょうけど
何かと別の扱いでした。



買い物に行っても「日本人」と分かると
店員が数人やってきて「サパニン(日本人)」と噂し、

「サパニン(日本人)分かるけど?」と返すと大喜び。
「いつ来た?」「どこの学校?」「中国語うまいな」

そして服を熱心に勧め「洋気!(洋風=垢抜けている)」とほめる。

こちらも気を良くして沢山買って後悔する。
でも日本で買うと思えば、大した事ない。



スーパーで買い物していても、
化粧して日本の服を着、違う風体の私が買い物をしていると、
中国人客が数人ついてくる。

そして私が見ていたものを
後でチェックしている。

何がいいのか悪いのか、
外国人の目利きを参考にしていたって事。




ディスコ(今はクラブか)でも
留学生は学生証あればフリーパス。

中国人からは20元の入場料取っていたのに?

それは留学生が入ると、そのディスコは流行るから。



流行るディスコのDJは、勿論、留学生。
音楽のセンスが違う。

日本人留学生も数多く皿回しのバイトをした。

留学生が集まるディスコは必ず流行った。
流行るディスコに中国人も来る。

そして中国人が多くなり始めると、
留学生は次のディスコへ移る。



虹橋のチェックインカウンターへの入口も
日本人はパスポートさえ見せれば、すぐに入れる。

中国人は旅客以外、ダメだったのに。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




こんな環境だと、浮かれる。

ある種の特権意識を持つ。

事実、浮かれていた留学生は沢山いた。



中国生活で何かとストレスが溜まる中、
遊びに夢中になり、授業に出なくなる。

出席日数足らずに退学になった子は、次の大学へ移る。

(退学の時に、学校から次の大学の入学申込書をプレゼントされる 笑)

そんな子も結構いたけど。



そうでない子も結構いたな。




私は、と言うと

浮かれた留学生活に、3ヶ月で飽きました。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




本来の目的である「語学」と「中国社会研究」。

これやらないと何しに中国来たか分からない。




TAXIでのインタビューを始める。
週に10回は乗っていた流しのTAXIで、毎回違う運転手と世間話。

そして「今の中国を、どう思う?」と聞いてみる。




100% 「中国、不行(中国はダメだ)」




経済的にラクではなかったからだろうと思う。

みんな本気で言っていた。

信号待ちの時には考え込むように「中国、不行」「中国、不行」

と首を振りながら何度もつぶやく。





こんなに発展してきているのに?





でも皆が皆、同じ答え。「中国、不行」





私は勉強する国を間違えたの?





留学生の目標は殆ど「帰国して日本で就職する」

自分で中国に残る気はなく

「日本の会社から派遣されて中国に来るんなら、いいかな」

「でも中国だけじゃ、ダメでしょ」

帰国の時には、晴れ晴れとした表情。



現地就職も、極一部の人が「記念就職」として考えていたかな。



例外的に、少数の人が深く中国社会に入っていたけれど

その人達は寮を出て、日本人社会からは完全に離れていた。

因って、彼らが一体どんな生活をしていたか、私にはまるで分かりません。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




あの頃、中国があのまま発展し続けると

誰一人、自信を持って言えなかった。

社会主義の中の市場経済という前代未聞の挑戦。

今までのパターンで予測する事は不可。

だから皆、安全に悲観論を口にする。

既に起きていた不動産価格の上昇に

日本人は「バブル、バブル」と軽く流す。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




不安にかられる中、

それでも私は中国人との交流を進める。

彼らは、日本人だと分かると大歓迎してくれる。

私は素直に嬉しい。

「受け入れてもらってる!」

しかし暫くして、言われる事は・・・





「あんたの給料、いくらだ?」

「日本に行きたいから保証人になってくれないか?」

「日本で働き口紹介してくれ」






私が日本人である事を前提とした話ばかり。




「別有用心」(下心がある)




という言葉は、この頃覚えた。





* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *





私が日本人だから親しくなりたいの?

誰も私を個人の「アコ」として見てくれないの?







怖くなりました。

親しくなれば、何か求められる。

何かメリットを期待される。





私は、そんなつもりじゃなくて

ただ友達になりたいだけなのに・・・






* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *





仕方ない事だったと思います。




差が大きすぎた。

中国人が国外に出るなんて、大変な事だった。

パスポート一つ取るのにも、どれだけ時間と手間がかかったか。

だから中国人も必死でチャンスをつかもうとしていた。

そして、違う世界の外国人が身近にいれば

それを足がかりに這い上がりたいと思うのは当然なのでしょう。




事実、そうやって「成功」した上海人は多くいました。




私も頭では理解できていましたけれど

でも、当時はそんなつもりはまるでなかったし

純粋に国際交流したいという思いは、毎度一方通行でした。




同じ中国にいながら、

中国人と「普通の」交流をするのを、

あまりの環境の違いに、ほぼ諦めていました。




なので

経験の一つとして引き受けた日本語教師のバイトで

知り合った生徒達も、きっと。





私に何かしら「日本人と交流」するメリットを

期待しているのだろう





そう思っていました。





と言うより、そう思おうとしました。

最初から希望を持たない方が、気がラクだから。






「日本人」と交流したい、

私個人では、なくてね。






つまり私は。


日本では見た事ない、複雑な社会構造に適応しきれておらず。



尚且つ、先の見えない不安に

このまま中国語勉強してて、いいんだろうか? と感じ、




そして、なにより

中国人のハングリーで現実的な考えについていけず

心の交流が出来ない、と絶望していた。







それが、空虚な心の理由でした。







つづく。






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やっと結論ですわ・・・長いねん^^;

一言で言うと・・・ちょっと病んでましたかね、ウツかな?(汗)

この【参】は、【弐】心の恩人 と同時にUPしました。
是非【弐】も、お読み頂ければ。気合入れてウダウダと一杯書きましたので^^;


きっと、他の街は状況は違ったと思いますが。

当時の上海の状況を、書ききれていないと思いますが少し(その割には長い)
書いてみました。一留学生から見た様子、ですけどね。



まあ、こういう精神状態の中、日本語学校の生徒達と笑顔で交流をしていたワケです。
ウソの笑顔ではなかったですが、何というか…寂しい?空しい?気持ちでした。

そして次回から、日本語学校の生徒達とのエピソードに戻ります。



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最終更新日  2008/07/09 12:22:01 PM
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