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CHINA QUEST*中国にはまったOL⇒女性社長の人生修行

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2008/07/14
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テーマ:海外生活(7774)
カテゴリ:上海留学時代


日本語教室が修了してからも、苗さん達との付き合いは続きました。



このまま続きを書いてしまいたい所ですが、

当時の事を思い出すと

他にも結構面白いエピソードが多かったので

時代背景を感じて頂く為にも、少しご紹介したいと思います。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




復旦の時に、F君という日本人留学生がいました。

この子はとても素朴というか優しい子で、私の良い友人でした。




私は疲れた時、よく彼の部屋に遊びに行って

「F君、コーヒー飲みたい(疲)」と訴えると。




苦味の強い雀巣(ネッスル)のインスタントコーヒーを

(中国で売ってるのは中国仕様で味違います)

嫌な顔一つせずすぐに淹れてくれるような。

そんな優しい子でした。




彼はのんびりした性格で、

誰でも受け入れるオープンハートだったからか

友達も個性的な人が多かったです。




と同時に珍しい経験もしていて。




私が上海留学に行ったのは94年の9月でしたが

その年の7月に、日本の隣で大きな異変が起こりました。





今話題の、将軍様

・・・のお父様がお亡くなりになったのです。





それまでは復旦に北朝鮮の留学生がいたそうです。



そうです。

それまでは韓国人留学生と北朝鮮留学生が、中国で、

同じ大学で留学生活を送っていたわけです。



北朝鮮からは数十人と聞いた覚えがあります、全員国費留学生。

韓国は自費留学生も多かったし100人以上はいました。



F君の話では両者は普段、やはりグループに分かれていて

話くらいはするけれど、一緒に何かする事はなかったそう。

韓国の方は服装も華やかで弾けている人が多かったけど

北朝鮮の人は素朴な服装や性格で、やはり雰囲気は大分違っていたようです。




そしてF君の同屋(ルームメイト)は、


その北朝鮮の人でした。


名前を「Tさん」としましょうか。




Tさんとの同居生活は、F君の大らかな性格もあり

大した摩擦はなかったようです。


中国製のペラペラ紙のノートに単語を一杯書いていて

とても真面目に勉強していたのに感心したそうです。


ただ、キムチはやはり常備していて、

そのニオイは印象的だったようです^^;





そして、94年7月に当時の将軍様がお亡くなりになり

北朝鮮の留学生全員に帰国命令が出ました。





Tさんは「もう戻ってこられないと思う」

厳しい顔をして、何故か大量の靴下を購入してカバンに詰め

慌しく帰国したそうです。




「なんで靴下なんかな~と思ったけど・・・」




F君はのんびり言っていましたが、Tさんにとっては

物資が乏しいのは分かっていたから、

取り敢えず何か持って帰ろうとしたのでしょうかね…?




そしてその後、公安だったか北朝鮮の役人だったか、

両方だったかが(←ちょっと失念)F君の部屋に来たそうです。




Tさんの所有物は残っていないか? と。




目につく部屋のモノ一つ一つに「これは誰のだ?」と聞き

F君は正直に「我的(僕のです)」と答えたそうですが




TVを指して「これは誰のだ?」と言われた時に




二人で割り勘で買ったので、その旨を伝えたら






・・・没収されたそうです^^;








抗議しようと思ったけど、





ちょっと怖かったので止めたそうです^^;







「あれ僕、半分出したのにな~(不満)」





F君は、時々思い出したように愚痴をこぼしておりました^^;





F君はTさんに一度、手紙を書いたそうですが

返事はなかったそう。





* * * * * * * * * * * * * * * *




・・・・・・


こんなエピソードも当時の上海ならでは、

だったかもしれません。





先ず中国という異国、そして上海という都会。

同じ社会主義国だったから北朝鮮留学生がいたのだろうし。




当時は単なるエピソードの一つでしたけど、

この北朝鮮の「Tさん」と数ヶ月同居した日本人のF君は

とても貴重な経験をしたと思いますよ、私は。




とにかくそれ以外にも大量の多国籍の留学生が、

一箇所に隔離され居住していたのですから

様々なドラマも起こるワケです。





隔離され・・・というのは聞こえが悪いですが

一般中国人との交流は、自由なようでそうでない部分は

時々感じる事がありましたから。





中国人のマンションに遊びに行く時、敷地内で他の中国人がいる時は

「日本語は話さないように」と注意を受けるとか、ね。

そして部屋の中で、やっとOKが出る。



個人的な交流をしている事が分かると

外国のスパイみたいに思われるからなのか、当時外国人が居住できる

マンションは限られていたので誤解を受けそうな事を避けたい、

という事だったのか。



理由は何だったか思い出せませんが・・・



秘密めいた行動にドキドキして聞くのを忘れていたのかな~?


ただ、「日本語を話さないで」と言った中国人朋友の真剣な顔に

こちらも真剣にうなづくしかないような

聞くのをはばかられるような雰囲気があったのは覚えています。。





いずれにせよ当時の中国では、

体制の違いを実感させられる事がちょくちょくありました。

なので留学生を一箇所に固めるのも

監視下に置く意味合いと理解していました。



しかし今思えば。

逆にそうでなければ、完全自己責任の留学生には

当時の環境は、まだキツくて大変だったろうと思います。

(それでも極一部、外に住んでいた人はいましたけどね)





それに数百人の雑多な国籍の人達が一箇所に寝泊りして

共に学び生活するなんて環境は、なかなかありませんから。





あれはあれで良かったと思う部分も多くあります。






つづく。





*このお話しは、1994~1995年頃の上海での出来事をご紹介しています。






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「脱線」^^;

悪い癖が出始めていますが、当時の環境を説明する為に
もう少し留学時のエピソードをご紹介したいと思います。。

のんびり見てやって下さい。その内、苗さんの話に戻りますので^^;




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最終更新日  2008/07/17 10:05:05 AM
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