|
テーマ:海外生活(7774)
カテゴリ:上海留学時代
プチ同窓会を早引け(?)してから 完全帰国するまでの苗さんとの交流は、断片的にしか 覚えていないんですよね・・・ 多分、考えると申し訳ない気持ちで一杯になるので 考える事すら避けていたんだと思います。 うっすら覚えている事は・・・ あの雨の日の後、いつもの週一の勉強会が 迫っていて。 苗さんは連絡して来るのか、来ないのか。 呆れられて、もう交流も終わるだろう、と思っていました。 でも勉強会の前の日に電話があって。 苗さんは「先日はすみません。お体はもう大丈夫ですか?」と。 私は「ええ、もう元気になりました。私こそ、すみませんでした。」 それから・・・ 「本当は、あの後、娘がピアノを弾いて みんなで日本の歌を一緒に歌おうと思っていました。 部屋の準備をしていたら先生が帰ったと聞いてビックリしました。 でも先生は具合が悪いので、残念でしたが仕方ありません。」 苗さんが明るく言って。 ああ、あの時、暫く居間にいなかったのは そういう事だったのか。 始めてわかって。 私は一体、何て事をしたんだろう、と思って。。 それから・・・ 苗さんは「明日は用事があるので行けません」と言って。 私が「お忙しいんですね」と残念そうに言ったら 「仕事が忙しいのですみません。また来週に。」と 明るく言ったので、ホッとしました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 確か苗さんは、この後も何度か寮に勉強に来ました。 私はもう苗さんと生半可(なまはんか)な気持ちでは 交流すまい、と思い。 その時々、出来る範囲で精一杯、苗さんの好意を 受け入れるよう努力しました。 勿論、やっぱりいつもチグハグで どう受け止めればいいか分からない時もありましたが できるだけ。 でも苗さんは二度と「家に来て下さい」とは言いませんでした。 当然の事だけれど 私が招いた結果だから、仕方ないと思いました。 そして私は留学を修了して帰国する事になり。 苗さんからは次の勉強相手を紹介してほしい、と頼まれたので 仲の良かった友人を紹介しました。 もし苗さんが「将来、娘を日本に留学させたい」と言ったら 自分がなるか、駄目なら父に頼んで 保証人になってもらおうと思っていました。 お金やモノでは替えられない、 「気持ち」を沢山くれた人ですから。 こんなワガママな外国人の小娘に 一生懸命親切にしてくれて、 私には、そんな気持ちは到底返せません。 だから、せめて私で何か役に立てる事を、と思っていました。 でも苗さんは、勉強相手の紹介以外は一切要求しませんした。 あ、私の日本の住所を教えてほしい、とは言いました。 モチロン喜んで住所と電話番号を渡して。 そして私は、完全帰国しました。 つづく。 この話は1996年の上海での体験談を書いています。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。 帰国して2週間くらい経った頃か、苗さんから手紙が届きました。次回はそれを元に。 扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。 私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[上海留学時代] カテゴリの最新記事
|