まあ、そんなこんなでスンでの所を学校の先生に拾われる…
というか保護(!)されて、私とヨウコちゃんはリン先生についていきました。
ところが、ある場所につくと、何と先生までもキョロキョロ、
聞くと頼んでおいた車がまだ来ていないとの事。
何か手違いがあったのか事故ったのか分からないけれども
今度はリン先生が陽の照りつける中、遠くを険しい表情で見ながら立っており。
一方、私とヨウコちゃんは先生に拾われた安堵感から
『お任せしま~す』と言った様子でボケ~~~ッと座って待っておりました。
途中でリン先生は公衆電話(固定電話を置いていて人に貸し出す)小屋を探し
「電話をかけてもいいですか?」と聞きましたが、中にいた色の黒いオバチャンは
リン先生がまるで冷戦状態の旦那であるかのごとく、こちらに一瞥もくれず
取り付く島もないように無表情で固定電話を先生の前に「パチャン!」と置く。
先生は「謝謝!」と、相変わらず全くこちらを無視するオバチャンに向かって
卑屈とも思えるくらい丁寧にお礼を言い、続けて「いくらですか?」と再度熱心に
オバチャンに話しかけました。が、相変わらずオバチャンは怖い顔でこちらも
見ずに切り口上で値段を言い、先生はまた丁寧にお金をカウンターに置いて
受話器を取り上げ、どこかへ電話を掛け始める。
オバチャンはお金をチラと一瞥すると、また冷戦状態のヨメのような仏頂面で
そっぽを向いてしまいました。
私はボケ~~ッとそのやり取りを眺めながら
『・・・すごい無愛想だ、というか無愛想を遥かに通り越して何と形容すべきか
分からない。日本じゃ他人にあそこまでの態度は有り得ないが、
これが中国スタイルか。しかし、先生は何であんなにヘコヘコするんだろうか…』
と思っていました。
*まだ物資も少なく、所謂「サービス」という概念も浸透していない時期。
売ってもらう方がヘコヘコしなければならない状態でした。
先生は赤色の安っぽい電話をダイヤルプッシュした後
「ウェイ?***(もしもし?あの…)」 と誰かと話した後、10分くらい受話器を
耳にあてたまま無言で立ち続けていました。足の重心を右左に変えながら
上向いたり下向いたりしながら、目線を右にしたり左にしたり私たちに一瞬
止まってでも素通りしたりもしましたが、でもずっと無言でした。
『一体どうしたのか?電話代もったいないよ?(汗)』 心配になりました。
先生は、ため息をついた後、首を振りながら、一度切って。
再度プッシュし今度は20分は無言で受話器を耳に当てていましたが、
諦めて受話器を置いた時に、丁度車を見かけたようで、
私とヨウコちゃんも「やれやれ」とお尻のホコリをハタキながら
老婆のようにヨロヨロと立ち上がったのでした。
*先生がどこに電話をかけていたのか聞きませんでしたが、
なんで10分も20分も繋がったまま待っていたのか。
中国で電話をかける時は、こんなになってしまうのか?と軽く驚きました。
(実際自分がかけた時はそうでもなかったですが。)
私が軽く驚いた、というのはある程度「中国は日本と全然違う」という認識が
あったので極力、自分の常識で「良し悪し」を判断しないように、
先入観は持たず、先ずはありのままを観察しようとしていたからです。
人から聞いた話はそれはそれとして、私は自分の目で見て耳で聞いて感じる
「私なりの中国像」を作ろうとしていました。
この時は恐らくオペレーターに繋がった後、目当ての人が出てこず
放置状態になっていたのだろうと推測します。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
結構、立派なワゴン車でした。
運転手は先生と同じくらいの年で赤っぽいシャツを着て、ひざ上丈の
半ズボンをはいていました。このヒザ上丈の半ズボンはこの後
至る所で見かけるのですが、普通のスラックス生地をヒザ上丈で
切ったようなモノで、どうやら「中国の夏の男性の定番スタイル」らしい、
と判断しました。
運転手は私とヨウコちゃんに 「ニーハオ」 と普通の愛想で挨拶をすると
運転席に乗り込み、先生は助手席に乗り我々は後ろへ。
先生と運転手は中国語でベラベラ話をしていて、私とヨウコちゃんは後ろで
聞き耳を立てていたのですが早すぎて所々しか聞き取れない。
『これが本場かぁ~…(汗)』
愕然とし、ヨウコちゃんに 「分かる?」 と小声で聞くと、ヨウコちゃんは
苦笑いして首を振りました。先生は雰囲気を察してか、振り返って
「分かりますか?」 とテストするように聞き 「えええ~~??(苦笑)」
笑って誤魔化す私達二人に 「ニヤリ」 と妙に大人気ない上から目線
(に思えた)の余裕の笑いを浴びせたので、
私は 『くそ~!』 と心の中でつぶやいたのでした。
*たかだか学校で1年や2年や勉強しただけでは、まだまだ語彙数は少なく
またヒヤリングも全然追いついてはいませんでした。
この車中の先生と運転手の会話は知った単語を聞き取るのが精一杯で
30%くらいしか聞き取れず、そうなると文脈もつかめず結果的に
何を話しているのか分からない。
自分のレベルが如何に低いか改めて思い知り、そして
『この先ホンマに大丈夫か!?』 大きな不安に襲われました。
街へ向かう途中でリン先生が 「ホテルの予約はどこですか?」と聞くので
「していません。今から探します」 と言うと、道中見かけたホテルに
わざわざ部屋があるか聞きに行ってくれました。
「あ、あの多人房(ドミトリー)にして下さい」とバックパッカーの基本である
ドミをお願いしたのですが 「どうしてですか?」 怪訝そうに聞き返され
「お金を節約したいので・・・」 と答えると 「しかし・・・安全ではないですよ?」
とたしなめられました。が、とにかく 「学生なのでお金がない」 と説明し
やっと納得してくれました。
*先生は日本に来ていたし、日本の事情も勿論詳しく、
中国の物価は日本に比べると安い事は分かっていました。
なので私達が、お金はあるのに何故わざわざドミトリーに
宿泊したがるのか理解できない、と言った風でした。
私達は先生を説得する為に「お金がない」と言ったものの、
勿論お金がない訳ではなく、ある程度持っていましたが。
生まれた時から周囲に何でもあって物質的に恵まれた私の世代は
多くが精神的充足を渇望していたと思います。
刺激を求めて敢えて貧乏旅行に挑戦するバックパッカーは
その象徴のようにも思えるのですが、一方、中国はまだまだ経済発展前。
先ずは「腹を満たす」次は「電化製品を買う」段階だったので、リン先生が
ドミトリーにこだわる私達を理解できないのも無理はなかっただろうと。
3件ほど、ホテルに確認に行ってくれた先生でしたが、
どうやらどこも部屋がなかったようで。
リン先生は少し考えた後 「外語学院に行きましょう!」
「私の両親は、そこで働いています」と続ける。
先生の両親が突然出てきた事が意味不明でしたが、
取り敢えず、イメージ的に事務の人を思い浮かべ
『あ~なるほど』とは思ったものの。
『だから何?・・・』と思い、『ホテルはどうなるの?』
リン先生は急にリラックスした表情になって。
ご両親と久しぶりに会うのは嬉しそうでしたが、それが決定してから
私たちのホテルの話がプッツリ無くなったのが心配でした。
瓜子(クワーズ)で適当な事言われたからな・・・
あの時、何軒スーパーで探したか!
前例が、あるからな・・・!
今回も何か、適当になったらどうしよう・・・(汗)(汗)(汗)
私としては 『一体、私達は今晩どこに泊まるのでしょうか!?(汗)』と
質問が口から勝手に飛び出しそうなくらい焦っていたのですが。
これ言うと、リン先生をまるで信用していないのと言ってるようなもんだし
『まあ、そこまでいい加減ではないだろう』と。
その一方
『何か適当な事されても仕方ないと思おう』
『街まで送ってくれただけでも有り難いよ』
・・・ショックを軽減する為に自分に言い聞かせ、
なりゆきに任せる事にしました。
つづく。
この話は1991年の夏の出来事を書いています。
古くて、すみません!良かったら一緒に当時の中国を感じてください。
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ちょっと今回、長いんですね。と言うか多いんですね。
描写を細かく書きたくなったので、字数が多くなりました。
読みにくいかと思いますが、すみません。
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私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!