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1月から「話し方講座」に通っている。
持ち時間は1人3分間で青年会議所(JC)のスピーチと同様なので私にとってはありがたい単位である。 初回は自己紹介、先月はテーマがあり「今年の抱負」か「冬」から選ぶことになっていた。 私は「抱負」を選び、長年の懸案となっている、アメリカ・ケンタッキー州で保管されているる第二次世界大戦中にフィリピン・レイテ島で拾われた日章旗を何とか日本に持ち帰りたいということを訴えた。 そして、今月は特にテーマが設定されていなかった。 私は以前、町田青年会議所のメンバーであった時にも話したことを少しアレンジしてお話した(全く同じでは芸が無さすぎるので(^_^;)以下は下書き原稿である。 「本日、私は自分の人生を決めた『忘れられない出逢い』についてお話します。 今から10数年前の夏、中央大学法学部三年だった私は就職か、大学院進学か迷ったまま、友人とアメリカ西海岸を旅しました。 それはオレゴン州ポートランドのコンドミニアムでのことでした。 ランドリーで洗濯していた時、近くにいた中年女性の視線がひどく熱く自分の手元に注がれているのに気がつきました。 次の瞬間「その洗剤は一体どこで買ったの?」という、非常にアクセントの強い英語が聞こえました。 使っていたのは日本で買ったタバコの箱位の大きさの旅行用洗剤で勿論、何の変哲もありません。 突然の問いかけに戸惑いながら「日本ですが…」と答えると、彼女は暫く「ジャパン、Oh、ジャパン…」と1人懐かしそうに繰り返していました。 私は何が起こったのかわからないでいましたが「使い終わったらその箱をくださいね」と頼まれ、更に唖然としました。 「こんなゴミを一体何故?何にするの?」と不思議に思っているのがきっと伝わったのでしょう。彼女は自身がブランカという名前のコロンビア人であり、かなり前に亡くなったご主人がかの地の日本人であったことを語り始めたのです。 ご主人は日本語はほとんどできなかったそうですが、亡くなるまで日本という自身のルーツを大変誇りに思い、かの地での苦しい生活の中でも先祖が日本から持って行った数少ない品を決して手放すことなく、大切にしていたそうです。洗剤に書かれた日本語は亡き夫の思い出へと繋がるものでした。 ブラジルのコーヒー農園への移民がよく知られていますが、明治後年から始まり、第二次世界大戦直前までにわたる、主に中南米への大量の日本人移民がかの地でどれだけのご苦労をされたかは私がここでご説明する必要はないと存じます。 幸い、ブランカは当時、沢山の子供や孫に恵まれ、アメリカに住む非常に優秀で裕福なご子息の招きで楽しく旅行中でしたが、洗剤の小さな空き箱をまるで宝物でも抱くかのようにいとおしそうに持ち帰るその姿を見送りながら私は移民政策という非常に重要な研究分野が未だ全く確立していない日本ではなく、移民先進国の大学院できちんとその分野を学びたいと強く思い始めていました。 そして、先日まで冬季オリンピックが開かれていたカナダ・バンクーバーのあるブリティッシュ・コロンビア州の非常に美しい州都ビクトリア大学政治学修士課程へと留学したのです」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.03.07 22:47:40
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