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2014年01月11日
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日本人は何をめざしてきたのか
第五回「福島 浜通り 原発と生きた人々」 Eテレ 
2014.1.5放映



原発が福島にできた時の話をテレビでやっている。
やはりすごく貧しい村で、お金が作れる方策を求めていたのね。
最初に第一原発を作る時の反対運動のかしらが町長になって誘致側に変わるんだね。
働き口を作りたいっていう住民の声に動かされたんだと息子さんは言っていた。
いろいろあるんだね。
原発を誘致することで、住民を原発の正社員にして欲しいという、
生活の要求が勝ったんだね。



原発が出来て(1971)からすぐに何度も深刻なトラブルがあった。
汚染水漏れとか制御棒の不具合とか。

双葉地方原発反対同盟の岩本委員長は「核と人間は共存できない」と言っていた。
その言葉は同志を引き付けた。

社会党から県会議員になり、
議会の中で原発の危険性と原発労働者を守る活動を展開していた。
当時、社会党の仲間が原発労働者から情報を得ていたが
岩本氏も情報源を追及され、情報を集めていた人も警察に追跡されるなどがあった。

全国に原発が作られる計画が広がる中、原発反対運動も広がっていった。

時は田中角栄の日本列島改造、中央と地方の格差をなくすという掛け声の高い時代。(70年代)
さらに、中東戦争のあおりで石油危機も起きた。

国策として原発を推進する流れになり、
反対運動を抑えるために交付金を配ることとなる(電源三法-1974)。
この時岩本氏は国会に招致され反対討論をした。

そのあとすぐスリーマイル島事故が起きた。(1979)
反対同盟は、この時こそ反対運動に拍車をかけたかった。
「双葉町でも起きる可能性のある事故だ」と訴え、岩本氏を再び県会議員に送りたかった。

しかし、原発事故のことを訴えれば町の人は「経済が衰退する」と警戒した。
地域振興の妨げになるという気持ちが、優って行った。

そんな中、電源三法の交付金は町を潤した。
町には公共施設がどんどん建設された。
出稼ぎに行くしかなかった人々は原発で働き、息子も原発に入り、
大スーパーができ、生活が豊かになって行く。

反原発同盟の岩本さんは、原発が止まったら生活出来なくなるという声が溢れかえる中で
反対運動を続けられなくなって行く。

放射能の影響で病気になっても医師は経済発展の邪魔になるから因果関係があると書けない。
町の人々は原発反対の人とは関われなくなってくる。

そんな折、原発の話など関係なく、当時長く続いていた町政の刷新のために、
原発反対同盟の岩本さんは双葉町長にかつぎだされ、当選。(1985)


電源三法交付金は公共施設を作るのには使えても、維持管理には使えない。
たくさん作った公共施設の維持に莫大なお金がかかった。
交付金の甘い汁も底を尽いた。

原発の代わりに企業誘致をするという道もあったし、ポスト原発として様々な試みもしたが、
結局、町民は原発の交付金を選んだ。
原発の増設を選択した。
双葉町町議会、全会一致で原発の増設を求めた。

財政逼迫してるからと言って、反対運動していた岩本さんが増設にまで走るとは思わなかったと、反対運動の同志は言う。
できれば別の道を求めるのが正道だが、一度交付金に浸ってしまうと麻薬的な効果がある、と当時の為政者は語る。


さらにその後、もんじゅ事故がおこり(1995)、県は使用済み核燃料の処理に不安を感じ始める。
佐藤栄佐久県知事が国の方針に疑問を呈した。(1998)
プルサーマルは安全なのか?
ブルドーザー的に進めてきた原発を立ち止まって考えようと言った。
しかし、その時、反対同盟出身の岩本双葉町長はプルサーマル誘致と増設を主張した。
増設が始まらないと町民の仕事が行き詰っていく。
その中3号機プルサーマル増設が決まる。

国は電力の独占を止めて自由化の道を開くための電気事業法改正(1995)により、
定期検査を地元会社から全国規模の大きな会社に託すことになったので地元の仕事が減って行く。

そんな時、東電がデーター改ざんしていることが発覚するなどして、
岩本町長・佐藤県知事は東電に対し信用を失ったとして、第一原発の増設計画は凍結した。(2002)

その後、双葉町経済は悪化していった。
2007年、増設凍結の解除。
再び増設に向かっていた矢先の2013年の震災と爆発事故。

(本当は2010年10月にプルサーマル運転開始しているようですね。
東電のHPに出ています。
これだけでもNHKどうした?って感じですが)


もともとは、原発反対運動のかしらで、「核と人間は共存できない」と言ってきたにもかかわらず、
「町民の幸せを実現するために原発と共生しなければならない」と、主張を変えてきた岩本さんにとって、
あの大事故は衝撃。
震災4ヶ月後に亡くなった。

2013年、汚染された土地の国有化が出され、原発を誇りに原発と生きてきた人々は故郷を失う。
代償は大きすぎた。

しかし、今後、若い者が他の土地で幸せにやっていけるようにしてやらなければならない。
それが俺たちの務めであると、彼らは語る。

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「岩本忠夫」サイトより

3.11は、原発事故は「そこで生き抜くいていく」ことすら許さない過酷なものであったことを示したといえる。
「原発と共生しながら生きていく」ことはできないのだ。
結局、岩本忠夫も、避難先で死んだ。







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最終更新日  2014年01月12日 00時55分56秒
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